第二巻 第8回 「戦略会議」

日米共に休日となった週初の月曜日(8日)、為替市場は模様眺めの展開かと思われたが、ユーロ円の売りに連れてドル円が112円台後半へと下落した。

「先週までは‘115円突破か’などと騒いでいたくせに、今日はもうそんな声は全くありませんね」

休日の夕方にも関わらず、宿泊先のアストリア・ホテルのバーに出向いてくれた山下の開口一番の声だ。

「ロンドンと話してたのか?」

「はい、東京の客のオーダーも113円台前半まで降りてきたそうです。
やはり、114円台は重たいですね」

「そっか。
まだロングのシコリもある様だし、ドルは一段安だろうな・・・。

まあ、今日は相場の話は止めておこう。

食い物は、オードブルと少し腹に溜まるものをオーダーしてあるけど、アルコールは自分で選べ」

「了さんは何を飲んでるんですか?」

「マカランの18年だ」

「じゃ、同じもので行きます」
と言い終えると、バーテンダーに注文を入れた。

大分仕草や話ぶりが、手慣れてきた様だ。

「ところで人事の件だが、明後日(水曜日)の午後、レイノルズ・リサーチが推薦してきた五人と会う予定だ。

俺がその内の二人に絞るから、最終的にはお前がインタビューしてどちらかを選べ。

今回は横尾が口を挟めない様にしてあるから、お前が決めればいい。

これが五人のレジュメだ。

目を通しておいてくれ」

「了解しました。

でも、横尾さんも面白くないでしょうね。

自分が管轄する部門の人事にも関与できないんですから」

「それはそうだが、彼に任せれば、間違いなく自分に忠実な人間を採用する。

そうなれば、お前が仕事をやりづらくなるだけだ」

「そうですね。

ところで前回の出張で‘横尾さんを市場部門から叩き出す’って言ってましたけど、その件はどうします?」

「自分から他人の脚を引っ張るのは気が進まない性分だ。

だから、相手が先に動いてくれた方が俺はやりやすい。

実は、日和時代に為替部門で横尾と一緒に働いていた人物が名古屋支店にいる。

融資部次長で、田所さんという人だ。

先週本店に出張してきた際に、横尾の話を聞くことが出来た。

田所さんは横尾より年次は一つ下だが、本人曰く自分の方がディーリングでは上だったそうだ。

そんな彼を横尾は外しに掛かったという。

手口は彼のポジションとは逆サイドのポジションを数倍持ち、時には他行の知り合いにも上乗せを頼んでいたらしい。

多勢に無勢で勝てる訳はない。

幾度か文句を言ったそうだが、‘何の証拠があって、そんなことを言う? そんなことより、技量を上げろ’と切り返されたそうだ。

当時の二人の上司が田村で、横尾とは兄弟の様な付き合い方だったらしい。

その翌年、田所さんは福岡支店に異動になった。

要は、‘仕掛けられた’ってことだ」

「酷い連中ですね。

それで、了さんとしては、横尾さんが仕掛けてきたら、切り返すってことですか?」

「まあ、そんなところかな。

今の彼はかつてよりポジション・リミットが大きい。

それにスイス時代にあっちで何らかの人脈を作っているはずだから、かつてよりもパワーアップしている。

そのパワーを利用して、俺を潰しに来る日はそう遠くないはずだ。

一連の意趣返しもあるが、何よりも彼は俺の上に立ちたいと思っている。

当分、彼の動向をウオッチしておいてくれ」

二人はアストリアのバーを後にすると、ダウンタウンのジャズクラブへと向かった。

アメリカンリーグ・地区シリーズの第三戦、ヤンキースがレッドソックスに1-16で大敗したことを知ったのは、帰りのタクシーの中だった。

ポスト・シーズン16失点は、球団史上ワースト記録である。

‘明日の試合もだめかな’

 

翌朝(NY火曜日の朝)、マイクから電話があった。

チケットは入手できなかったという。

 

‘残念だが、ポスト・シーズンでのヤンキース・ボストン戦の大詰めだ。
無理もないな’

 

マイクからの電話の直後、志保からメールが届いた。

〈チケット、残念だったわね。

でも、私が行くから我慢して。

6時過ぎにホテルに行くわ〉

 

《部屋は40XXだ。

待ってる。

混雑時のグラセン(グランドセントラル駅)、気を付けてな》

 

〈了にしては、珍しく優しい言葉ね。

ありがと、気を付ける。OX〉

 

オフの日中、ブルックス・ブラザーズやポールスチュアートなどで買い物をしながら時間を潰し、志保を待った。

 

メールの通り6時過ぎに部屋に来た志保は、いきなり俺の胸に飛び込んできた。

人目があろうとなかろうと構わない、いつもの彼女の仕草である。

そのまま俺にしな垂れてくるかと思いきや、
今度は「了、ルームサービスをお願い。急いできたのでお腹空いちゃった」と言う。

 

‘呆れてモノも言えないな’

 

「何でも良いのか?」
少しふてくされ気味に言った。

そんなことも気にせず、
「ええ、スープとサンドイッチとか、それにスパークリング・ワインもお願い」と言いながら、バスルームへと消えて行った。

 

‘奔放だな。

そこが彼女らしいって言えばそうだが、とても嫁さん向きではないな’

 

その晩、抱き合った後、彼女にそれとなく言った。

「もしかしたら、こっちに来るかもしれない。

マイクに伝えておいてくれ」

「えっ、コネティカットで働くってこと?」

「ああ、但し、‘もしかしたら’ってことを付けくわておいてくれ。

50:50程度の感じかな」

「何か銀行であったの?」
怪訝そうな顔だ。

「これから、あるかも知れないってことだ。

もうこの件では、これ以上話すことはない」と言い放ち、テレビのリモコンのスイッチを入れた。

【4-3 loss to the Red Sox】

 

‘やはりな。

今年のヤンキースにはガッカリだ’

 

志保は‘残念ね’と言いながらも、何故か嬉しそうだ。

「ねぇ、グリニッジ近辺に二人が住むのに良い場所を探してみる」
などと言っている。

「おいおい、まだ決めたわけじゃないからな。

それに志保と一緒に住むなんて誰も言ってないだろ!?」

「了解、了解」などと言いつつ、既にスマホで住宅を探してる様子だ。

 

翌日、5人とのインタビューを熟し、二人を選んだ。

二人共、キャリアに問題はなく、30代前半の妻子持ちである。

後の選択は山下に任せてある。

‘彼がやりやすい人物を選択すれば良い’

 

ドル円相場は、週後半に入って111円83銭を付けた後、112円20近辺で週を終えた。

まだドルが一段安となりそうな気配だ。

 

土曜の夜11時過ぎに神楽坂の社宅に戻ると、やおらPCにログインした。

国際金融関連のヘッドラインを一覧すると、『ムニューシン米財務長官、日本に為替条項要求』の一行が目に飛び込んできた。

 

‘為替相場が日米通商協議での争点の一つなることは市場参加者の誰もが予想していたことだが、ドル円が崩れ始めている時だけに週明けから左に(ドル安に)触れる可能性がある。

市場が慌てれば、110円割れがあるかも知れないな。

15日に発表が予定されている米財務省の【為替報告書】で、日本が為替操作国として認定されるとは思わないが、記載される内容には要注意だな’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。