土曜(14日)の晩、国際金融新聞の木村宛てにメールを送った直後にスマホが鳴った。
岬からである。
「了、やっとVISAが下りたの。
それで連絡をと思って」
「そっか、いよいよか。
淋しくなるな。
でも、岬の望んでいることが少しずつ叶って行くのだから仕方ないってことか。
それでいつ頃行くんだ?」
「夏は日本人観光客が多いので、MOMAの方では早めに来てもらいたって。
一応、来月上旬には行こうと思ってる。
既に当座の住まいも用意してくれてるらしいし・・・」
「結婚できないのは分かってるつもりだけど、これで決定的だな」
「そうかもしれないけど、もしかしたらってことも。
人生なんて分からないものよ」
長い間離婚がまとまらずに沈み込んでいたが、今は何の屈託もない様だ。
「ヘー、岬も随分と成長したと言うか、強くなったって感じだな。
いずれにしても、元気でな。
岬がそっちに行くのは山下に伝えてある。
何かあれば、必ず彼に相談しろよ」
「ええ、分かってる。
了も元気で。
そして出張であっちに来るときは連絡してね。
それじゃ、切るけどいい?」
「・・・ああ、それじゃ」
同時にスマホが切れた。
人生とは皮肉なものである。
俺がニューヨーク勤務を終え、岬がニューヨークで働く。
‘岬の離婚は俺との結婚’と考えていたら、それが永遠の別離となった。
‘9年前のあの時、しっかりと掴んだはずの手を何故離してしまったのか’
悔やんでも悔やみ切れない思いが切なく胸に残り続けた。
途中でpauseにしておいたthe Fabulous Baker Boys のサントラを再びplay モードに戻した。
いつもならドライブと仕事を快適にしてくれるメロディーだが、今は映画のテーマ通りの大人の失恋を描いた切ない旋律でしかない。
ベッドのサイドテーブルに置いてあるラグロイグのボトルを手に取ると、液体をグラスに注ぎ、ゆっくりと喉に流し込んだ。
‘来週は久々に思いっきりポジションを取るか’
日本が休日となった週初の16日、ドル円は海外を通じて112円台前半での模様眺めの展開となった。
そんな相場展開にも、翌日(17日)の海外時間に変化が現れ、ドルが買い気配になった。
この日、パウエルFRB議長の議会証言がある。
彼から新味のある言葉飛び出てくるとは思わないが、今の市場はドル買いに前掛かりだ。
‘米景気に楽観的である’や‘漸進的利上げを続ける’と言った従来と同じ証言でも、市場はドル買いの理由にするはずだ。
果たして、議会証言は正にそんなものだった。
銀行を出る前、山下にメールを入れておいた。
・・・・・90(112円90銭)以上で、100本売ってくれ・・・・・
午前2時過ぎ(東京の18日)、スマホにメールが届いた。
・・・・・昨日のうちに90で50本、数分前に92で50本、ダンです。
おやすみなさい・・・・・
・・・・・了解。
悪いけど、マイクにこのことを連絡しておいてくれるか。
そして東京でも、あと100本売るつもりだということも・・・・・
翌日(18日)の東京の朝方も、ドル円は買い優勢の展開になった。
「さっきから客は結構売ってくるけど、あまり落ちないな?」
誰に言うともなく、言葉が出た。
「はい、買いが引きませんね。丁度(113円丁度)を割ると、買いが出てきます」
沖田が返事をする。
「そんな感じだな。
もう少し待つか」
今日、さらに100本売るつもりだ。
午後に入ってもドルの買い気配は変わらなかった。
3時過ぎ、急に動きが早くなり、朝方売れなかった水準の113円08銭を抜き、113円14銭まで上昇した。
‘ここで売るしかないか’
「沖田、100本売る。
そっちで50頼む」
「10(113円10銭)で50」
「了解、俺は09(113円09銭)で50」
「ニューヨークで100本、こっちで100本、トータル200本ですか。
課長が勝負するときは、根拠以前に何か感じるんですか?」
「はっきりした根拠があるときもあるが、今日のはちょっと違うかな。
敢えて言えば、なぜ皆がこんな高値でドルを買っているのか良く分からない、というのが根拠って言えば根拠かも。
米中貿易摩擦の解釈は人それぞれだと思う。
ただ、俺はそれがドル買いに結びつくという理屈が釈然としないんだ。
112円前後までの買いは大方ショートカットだろうが、今買っている連中は俄かロングだ。
市場の大勢がセンチメントに負けることがある。
それが今のドル買いの様な気がする。
そんなときは、誰かのちょっとした発言や出来事で、急落することが多い。
俺に運があれば、誰かが何かを言ってくれるかもな。
まぁ、そんあところか。
それはそれとして、山下にGTC(good till cancel)で3円15(113円15銭)でもう100本の売りオーダーを出しておいてくれ。
あと、3円40は年初来高値だから、一応call levelということで頼む」
年初来高値を抜けると、必ずメディアが騒ぎ立てる。
それが市場心理を煽ることがある。
「了解です」
沖田にリーブオーダーを頼むと、東城に電話を入れた。
「仙崎です。
今、宜しいでしょうか?」
「おう、大丈夫だ。
どうした?」
「私のオーバーナイトのポジション・リミットの件ですが、もう100本頂けますでしょうか?
今、日中は無制限ですが、オーバーナイトは200本なので、300本にして頂きたいと」
「分かった。
勝負にでるのか?」
「はい。
既にショート200本振ってますが、もう100本追加するつもりです」
「そうか、お前のことだ、何か感じるものがあるんだろう。
さして根拠もないのにな」
笑いながら言う。
「本部長、幾ら何でもそれは言い過ぎじゃないでしょうか?」
「悪い悪い。
ところで、来週の火曜日、‘下田’でどうだ?
先日のニューヨーク出張の労いだ」
「もちろん、喜んでお引き受けします。
それでは、リミットの件、宜しくお願い致します」
それ以降、ドル円は19日に113円18銭まで上昇したが、その日のうちに相場付きが一変した。
トランプがFRBの利上げ姿勢に不満を示す一方で、「強いドルは米国にとって不利」と発言したのだ。
週末の金曜日にも、同じ内容がツイッターに書き込まれたことで、ドル円は111円38銭まで沈んだ。
別にラッキーとも思わなかった。
頭に浮かんだのは、‘これで夏休みが取れる’、それだけである。
土曜日の晩、ラフロイグのボトルとグラスを手にしながら、デスクへと向かった。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を書くためである。
G20中銀総裁・財務相会合でブエノスアイレスに出張するが、メールを送ってくれと言う。
BGMにはソールシンガーJohn Legend の ‘Get lifted’をチョイスした。
インストルメント・アルバムではないが、文字通り気分を持ち上げてくれるのが良い。
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木村様
遠隔地への出張、ご苦労様です。
先週のメールで、‘最近相場が見えていない’と書きましたが、今週ドルを売ってみました。
112円以上のドル高はマーケットに従った単なる俄かロングによって作られた相場であり、さもない切っ掛けで簡単に崩れると考えてのことです。
今月下旬に日米新貿易協議を控えていることを考えれば、トランプの「ドル高に否定的な発言」は正にグッドタイミングでした。
他方、米国のイールドカーブのフラットニングが気になるところですが、米株が足踏みした出したこともあり、この辺りがもう少しクローズアップされてくると、ドル一段安もありというところでしょか。
来週のドル円相場は、ドルが急落した後だけに若干の反発があるかもしれませんが、110円割れもありと見ています。
予測レンジ:109円20銭~112円80銭。
IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了
p.s. 暫く夏休みを取ります。
メールは部下の沖田に頼んでおきますので、宜しくお願い致します。
(つづく)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。