岬との約束時間は3時だ。
‘野麦倶楽部’から松本の市街地まで普通ならば1時間もあれば着くが、台風の影響も考えて、早めにプラドに乗り込むことにした。
案じた通り、道中では豪雨と強風に悩まされた。
断続的に降り続く豪雨のなか、時折風で飛ばされてきた小枝がフロントガラスに当って運転の邪魔をする。
慎重にならざるをえない。
普通なら30分とかからない梓湖まで50分もかかってしまった。
梓湖の分岐点を右に折れ、新島々方面に向かうと急に対向車が増えだした。
夏のリゾート・上高地に向かう車だろう。
台風が近づいているのを知りながらも、人気リゾートの宿を予約している手前、向かわざるを得ないのだ。
雨で滑りやすくなっている片側一車線の狭い下り坂と、連なる対向車。
否が応でも、運転は慎重を強いられることになった。
およそ30分すぎた頃、やっと新島々の駅近くまで辿り着いた。
ここからは右手に見える上高地線に沿って走り抜ければ、松本の市街地に着く。
少しずつ、車の運転にも余裕が出始めてきた。
心に平静が戻ると、Fredrick Packers のデイパックに入れて置いた数枚のCDからブラインドで一枚を取り出した。
引き当てたのは車を快適に飛ばすときには相応しくないBill Evans の ‘You must believe In Spring‘だった。
ただ、スピードを出せない今の道路状態には持ってこいのアルバムだ。
とりあえずCDをジャックに押し込むと、’B Minor Waltz ‘が流れ出した。
時に人を切なくさせ、時に荒んだ人の心を慰めてくれる曲である。
聴いた回数は数え切れない。
ジャズファンならずとも、聴いた人は心を打たれるメロディーラインである。
アルバムの二曲目に挿入されているタイトル曲よりも、この曲をトップに持ってきたところが良い。
トラックが進みアルバムの最後から二番目に挿入された’Some Time Ago’ が聞こえてきた頃、車は篠ノ井線の線路下に差し掛かった。
いつも渋滞する場所だが、天候のせいもあり、余計に時間がかかってしまった。
でも、焦る必要はない。
10分もすれば、目的の駐車場に着く。
松本の市街地に来るときの駐車場は、パルコと大通りを隔てて反対側にある伊勢町のパーキングと決めている。
好んで訪れるカレー店やコーヒー店へのアクセスが良いからだ。
アルバムも終わりかけた頃、パーキングに着いた。
便利の良い駐車場だけに混んでいて、いつも螺旋状のパスを幾度も回ることになる。
今日も6Fまで登らされてしまった。
空きスペースに車を入れて時計を見ると、3時15分前である。
何を話すか、少しだけ考えをまとめておく必要があった。
‘岬の今の心境について話すべきか、8年前のすっきりしなかった別れへの言い訳について話すべきか’、まったく考えがまとまらない。
そうこうしているうちに時間がきた。
近くの駐車場に着いた旨のメールを入れ、‘5分後に店の前で待っていてくれ’と告げた。
車を降り、駐車場を出ると、直ぐ左手にある一方通行の道を歩き出した。
その道の右側50メートルほどのところに岬の母が営むクラフト店はある。
付き合っていた頃、一度だけ訪れたことのある店は江戸の裏座敷的存在の松本に相応しい佇まいだった記憶がある。
30メートルほど歩いたところで、ゆったり目の白のプルオーバー、裾を巻き上げたカーキ色のチノ、白のスニーカー、という出で立ちの細身の女性が眼に入った。
岬である。
少し微笑んでいる様にも見える。
ボブにカットした髪を揺らしながら、こっちを向いて手を軽く振っている。
少しやつれたのか、やや痩せた感じを受けるが元気そうだ。
岬も小走りにこっちに向かっくる。
そして二人の距離が一挙に縮まったとき、いきなり彼女が胸に飛び込んできた。
額を胸につけ、泣きじゃくりながら両手の拳で肩甲骨の下辺りを叩き出した。
あまりの力強さに「うっ」と声を上げると、「ごめんなさい」と言いながら後退りした。
目から止めどなく涙が溢れ出している。
「そんな顔じゃ、美人も台無しだな」と言いながら、ジーンズの後ろのポケットから少し皴になったハンカチを取り出し、
彼女に渡した。
「ありがとう」と涙声で言う。
そして、「了、少し待ってて。母が外出しているので、店の戸締りをしてくるから。それから化粧も直してくる」と言って店の方に走って行った。
その後ろ姿に向かって、
「ああ、それじゃ、俺は車を例の駐車場の脇に止めて待っているから、そっちに来てくれるか。車は四駆、カラーはブラックだ」と少し大き目の声で言った。
「はい」と言いながら、岬は暖簾をかき分けて店の中に消えていった。
車をパーキングから出し、数分待っていると、ラベンダー色の傘をさした彼女が現れた。
「どこへ行く?」
「城山でも良い?」と聞く。
「俺は構わないけれど、また雨が強く降るかも知れない。それでも良ければ」
城山は市街の北西部の高台にある公園である。
さもない公園だが、展望台にもなっていて、天気次第では北アルプスも望むことができる。
コーヒーとカレーが評判のギャラリー兼カフェが隣接しているのが良い。
20分も走った頃、公園の駐車場に着いた。
いつ雨が降り出してもおかしくない空模様だが、今は幸いにも上がっている。
「少し歩くか?」
「ええ」
「元気なのか? 少し痩せたみたいだけど・・・」
「うん、体はどこも悪くないの。でも、ここ何年も、心がだめみたい」
「詳しい事情は分からないが、山下から凡その話は聞いている。もうご主人とはどうにもならないのか?」
「ええ、とても一緒に暮せる様な人じゃないわ。
省(財務省)では優秀で、間違いなく次官までは行く人だと言われているそうだけど、人間性は・・・。
異なる環境で育った二人が一緒に暮らせば、夫婦だって日々の行動や会話が気になるのは当然よね。
だけど、彼は常に自分が正しいと思ってる。
だから、私のどんな些細な落ち度も許さないの」
岬が気丈なのは知っているが、決して頑固ではない。
だから、些細な落ち度を指摘されれば、その都度、夫に詫びを入れていたに違いない。
そんな卑屈な毎日の連続では、身も心も持たないのは当然だ。
暫く園内をゆっくりと歩くしかなかった。
悪天候のせいか、あたりには誰もいない。
「なあ、岬」
「何?」
「あのときのこと、まだ怒ってるのか?」
曖昧な別れ方をしたことを聞いたつもりだ。
「いいえ、あれは私も悪いの。というより、一言、あなたに声をかけておけば良かっただけのこと。
‘まだ愛してる?’ってね。
でもね、あのときの了は近づけないほど怖かったのは事実よ。
だから、ソーっとしておいたの」
「そうだったな、当時の俺は。でも俺があんな状態に陥ったのは、大きな損失を出しからじゃないんだ。
あの程度の金額なら、いつでも取り戻せる自信もあった。
ただ、上司が部下を罠に嵌める様な組織や、そこで働いている自分への嫌悪感もあって、退職を考えるまでになっていたんだ。
でも辞めれば、俺や姉を一人で育ててくれた母親を落胆させることになるし、岬との結婚も難しくなる。
ともかく悩み続けていた。
だから、あの時は誰とも話たくはなかった。
やはり、俺がそのことを素直に岬に言っておけば良かったんだ」
「そうね。二人共、悪かったってことね。
でも、あなたがニューヨークへ行った後、東城さんが言ってくれたわ。
‘まだ遅くないから、追いかけろ’って。嬉しかった」
当時、東條さんには岬と付き合っていることを話していた。
あの人らしい気遣いだ。
「それで何て答えた?」
「もう、‘ポジションは切りました’って答えたわ。
そしたら、東城さんは’ポジションを切ったとは、
さすが仙崎の彼女らしい表現だな’と言って笑ってた」
暫く間を置いたあと、その話の続きを始めた。
「そしてこうも言ってたわ。
‘長い人生、たまにはsquareも悪くない。
人間、ニュートラルになって考えることも必要だ。
だが当分の間、あいつのポジションはhead wind*だな。
いずれにしても、いつか二人のポジションにtail wind*が吹くことを祈ってるよ。
何か出来ることがあったら言ってくれ’と少し笑みを浮かべながら言ってくれた。
本当にいい人ね」
「ああ、良い人だ」
二人はその後も、何も言わずに歩き続けた。
すると、大粒の雨が降り出してきた。
二人は駐車場へと急いだ。
やっとの思いで車に辿り着き、助手席のドアを開けてあげると、
「了、強く抱きしめて」と岬が絞り出す様な声で言った。
右手を岬のうなじに回し、その身体を胸に引き寄せると、力強く抱きしめた。
雨ですっかり濡れてしまった白いプルオーバーを通して伝わる温もりに8年前の懐かしさが甦ってくる。
‘辛く、そして切ないポジションだ。暫くは head wind を受け続けるか’
その夜、‘野麦倶楽部’に戻ったときには8時を回っていた。
夕食の時間は過ぎていたが、主人に無理を言って、トーストとサラダ、それにビールを部屋に運んでくれる様に頼んだ。
「明日も釣りは無理そうですね。また時間ができたら、9月にでも来てください」
頼んだものを運んできた主人が、トレーをテーブルに置きながら申し訳なさそうに言う。
長野は9月の末で禁漁になる。
「そうですね。是非、そうしたいと思います」
ここに来れば、岬に会える。
そんな想いが脳裏を過った。
「それじゃ、ごゆっくりお休みください」と言い残して、主人はドアの方へ戻って行った。
「お休みなさい」
翌朝、奈川を後にして、ひたすら社宅のある神楽坂へとプラドを走らせた。
CDは‘ファビュラス・ベイカー・ボーイズ’を選んだ。
大人の切ない恋心を描いた映画のサントラで、デイヴ・グルーシンがプロデユースした傑作である。
切ない映画のサントラだが、車の運転を快適にしてくれるのが良い。
翌週初(7日)、先週末の7月米雇用統計が良かった割にはドルが戻さなかった。
北朝鮮絡みの地政学的リスクで、円が買われるのを恐れてか、市場はドルを買わない。
本来であれば、売られるべき通貨の円が売られない。
‘市場にすっかり刷り込まれた、有事の円買い’という、コンセンサスが妄信されているのだ。
‘それに逆らっても仕方がないな’
暫く相場を眺めた後、山下に話しかけた。
「山下、約束を果たした様だな。凄いな、お前の底力は。ここは調子の良いお前の通りにするよ」
「からかわないで下さいよ。でも、課長が先週話していた様に、ドルが下という流れは変わっていないようですね。例の8円台(108円81銭、108円13銭)を試す様な気がします」
「そうだな。それじゃ、50本売るか」
「20本は75(110円75銭)。30本は76でダンです」
相変わらず、良い手捌きだ。
「ありがとう。ついでに言っておくけど、お前との約束も守ったからな」
「はい、課長の顔を見れば分かりますよ、そのくらい。またそのうちにゆっくりと話を聞かせてもらいます」
翌日から、ドルは崩れ始め、週末には108円70銭まで落ちた。
週末の土曜日の午前中、社宅のベッドに寝転がりながら、来週の相場のことを考えていた。
自分で値動きを見ていなかったせいか、感触が湧かない。
チャートを見る限り、まだドルは底を打っていないし、あまりにも戻りが弱い。
8円13銭を抜けば、フィボナッチ水準の6円50銭程度まであるのかもしれない。
と言って、8円台・9円台は揉んでも不自然ではない水準だ。
迂闊にはドルを売れない。
とりあえずは、週初の様子を見るのが得策か。
‘久しぶりに神楽坂に出て、のんびりパスタでも食べることにしよう’
(つづく)
注:
*head wind:アゲインスト(向かい風)
*tail wind:フォロー(追い風)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。