第30回 「語られた真実」

ホリデーシーズンの真っただ中、市場は週初(25日)から週半ばまで動意なく過ぎた。
ドル円相場は113円前半での保ち合いに終始し、市場からすべての参加者が消えてしまったかの様だ。

この時期、毎年同じ状況が繰り返されるため、いっそのことクリスマス前後の数日間、市場がクローズしてしまえば良いのかもしれない。

だが、市場には市場の機微があり、そんな相場付きでも微妙に何かが動いているはずだ。
そんな微妙な動きを読めるときもあるから、動意ない相場も無視できない。

米大リーグ(MLB)では、今年から監督による申告敬遠が採用された。
監督がアンパイアに敬遠のフォアボールを申告すれば、投手は4回の投球を行う必要がなくなったのだ。
4回分の投球時間がセーブされ、試合時間の短縮に貢献するという。

そんな新ルールを、「4球の間の空気感があるでしょ、面白くないですよね」と切り捨てた大リーガーがいる。
日本が生んだ稀代の大リーガー‘イチロー’である。

4球の間の空気感、どこか動かない為替市場にも似ている。

足下のドルは一カ月間も買い進まれた局面で、上にも下にも行けない状態だ。
だとすれば、ポジション調整で少しドルが落ちるのかもしれない。
そんな空気感が動きの失われた113円台前半に漂う。

果たしてドルは木曜日からジンワリと落ちだし、今年最後の市場で112円47銭へと下落した。

年末に短期のドル調達コスト(金利)が上昇したのは例年通りだが、今年の急騰は酷過ぎる。
FED(米連銀)が正常化(利上げ)路線を進めるなかでのこの状況、それでもドル買いが進まない。

不自然さがそこにある。

高すぎる調達コストに辟易とした向きが、ドル資金を敬遠すれば、調達コストが低下するはずだ。
新年早々、それが切っ掛けでドルが落ちるかもしれない。

依然として114円台前半の50本ショートを持ち続けたままだ。
盤石の根っこのポジションとは言えないが、これを軸に数回転の売買ができ、それなりの利益を生んでいる。
今の処、このショートが虎の子のポジションである。
もう少しこのショートをキープしておくしかない。

複数のテクニカル・ポイントが集中する112円前後、ここが抜ければ、1月に110円台もあり得る。
そんな展開を期待したい。

 年末年始を家族向けの社宅で過ごすのは侘しい。
年末の土曜日(30日)、横浜市の永田町にある実家に戻ることにした。
年が明けて1日には姉夫婦と姪・甥も来るという。

皆が集まると、必ず俺の結婚話になるので鬱陶しいが、久々に家族らしい雰囲気で迎える正月は良いものだ。

実家には自分の部屋が大学時代のまま残っている。
母親の手が入っているせいか、清潔感が漂っている。

自室のベッドで暫く横になった後、夕飯目的で母を中華街に誘ったが、自分が作ると言い張った。

‘この歳になっても我が子は我が子である。
手料理を食べさせたい気持ちが働くのだろう。

勝手な理屈だが、独身であり続けることは一種の親孝行なのかも知れない’

結局その日は、母親の料理で夕飯を済ませることにした。
サバの味噌煮、カキフライなど、自分の好物がテーブルに並ぶ。
それらをつまみに母と息子は、ビールを飲みながら世間話で時を埋める努力をしたが、会話はそう長くは続かなかった。

間を繕う様に
「岬さん、今頃どうしてるのかしらね?」
と聞いてきた。

母は岬を気に入っていた。
心の中では今も、‘岬が俺の嫁さんであったら良かったのに’と思っているのに違いない。

「人伝だけど、元気にしてるらしい」
それ以外答えようがなかった。

会話が途切れ途切れになったのを頃合いに、
「少し疲れた」と言って、自室に引き上げた。

 自室のベッドに横たわると、岬のことが脳裏に浮かんできた。
彼女には財務省の勉強会の前に聞いておかなければならないことがある。

勉強会では岬の夫が何等かの言いがかりをつけてくるに違いない。
それに備えて置く必要がある。

枕の横に置いてあるスマホを手にした。

「こんばんわ、寒いわね」
少し声が明るい。

「元気か?」

「ええ、このところ松本も寒波で大分冷え込んだけど、大丈夫。
了は?」

「ああ、今、実家でのんびりしてるよ。

いつもながら、お袋が岬のことに触れてくるけど。
それが結構、辛い。

岬のことを気に入ってたから仕方ないけど」
そう言ってから、‘拙い’と思った。

かつてだったら岬にとって嬉しい話に違いないが、今となっては後悔を深めてしまう言葉に過ぎない。

少し会話が途絶えたが、
「機会があったら、またお母様にお会いしたいわ」
と落ち着いた声が返ってきた。

「そうだな、そんな日が来ると良い。
ところで、例の財務省の勉強会が1月の中下旬に行われることになった。
そこで、岬に聞いておきたいことがある。
坂本さんとの間に‘本当は何があったのか’を教えてくれないか?」

躊躇いもあるのだろうか、少し間が空いたが、
凛とした声が返ってきた。

「了も薄々は感じてるでしょうけど、夫と貴方とは真逆の性格とでも言えば良いのかしら、あるいは陰と陽かも。

了がニューヨークのテレビ番組に出演していたときの事は、以前に話したわよね。
あの時、夫は了が私の元の恋人だったことに気付いたと思う。

その後、夫との諍いごとがあったときのこと、‘彼だったら、そんな言い方をしないわ’って言ってしまったの。

軽率だった。

‘彼って、あいつのことか?’って聞いてきた。
私は否定も肯定もしなかったの。

もう夫婦関係に疲れてたから、あの時はどうでも良かった。

それが今の了に結びつくなんて、考えてもみなかったわ。
ごめんなさい、本当に・・・」

そこまで話すのがやっとの様子である。

「もう、それ以上は話さなくて良い。辛かったな。
俺の方は大丈夫だ。

多分勉強会の当日、何かを仕掛けてくるだろうが、心配いらない。
だからもう泣くな。

今日は伯父さんの処へでも行って、旨い酒でも飲んでこい」

岬の伯父は松本で‘縣倶楽部’という割烹を営む。

まだ嗚咽している様だが、
「分かったわ、行ってくる。
お店、年内は今日が最後らしいから、残りものの整理に丁度良いわね」
少し元気を取り戻した様だ。

「そうだ、それが良い。
それじゃ、伯父さんに‘良いお年を’と伝えておいてくれ。
おやすみ」

「おやすみなさい、風邪、引かない様にね」

 電話を切ると、自室の窓を全開した。
12月末の外気は冷たいが、気持ちが良い。

これで岬の夫と戦う準備ができた。

部屋の隅にパタゴニアのキャリーバッグが置いてある。
衣類、PC、ラフロイグのボトル、ショットグラス、BOSEのSound Link MINIなど、数日間の滞在に必要なすべてが入っている。

ラフロイグをグラスになみなみと注ぐと、ipodとSound Link MINIをBluetooth接続した。

BGMにはPat Methenyの’One Quiet Night‘を選んだ。

男っぽいギターの音色がラフロイグに妙に合う。

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。