2日の昼過ぎまで横浜・永田町の実家で過ごした。
帰りがけに玄関で靴を履きながら、
「いつも遠いのに、社宅の掃除に来てくれてありがとう。
それに料理も助かるよ」
と母に礼を言うと、その目が潤み出している。
単なる別れの涙もあるのだろうが、いつまでも結婚もしない息子に対する複雑な思いが涙に籠ってる感じがした。
「随分とお前も大変なんだろ。
母さんはお前の仕事のこと、何も分からないけどあまり無理しないで」
と言う。
母親が息子との別れ際にかける有体な言葉だが、それが自分の母親のものであれば特別である。
自然と心に疼きを覚えた。
呼んでおいたタクシーが既に門の前で待っている。
それを口実にドアを押し開き表に出ると、後を追う様に出てきた母に封筒を手渡した。
50万円入っている。
「お前、こんなに・・・」と戸惑う様な母の声を背中に聞きながら、タクシーに飛び乗った。
車窓越しに少し左手を挙げて母を見やると、手を振りながら何か言ってる。
‘ありがとう、元気で’と読めた。
その日ドル円は、北朝鮮・金正恩による米国への威嚇発言でリスクオフの雰囲気が拡がり、112円06銭まで下落した。
だが、複数のテクニカル・ポイントが112円近辺に絡んでいるため、ドルに下げ渋り感がある。
その日以降、日米株価の上昇やISM製造業景気指数など良好な米経済統計がドルの背中を押し、ドル円は米12月雇用統計が発表される週末前に113円方向へと動いて行った。
夜に米雇用統計の発表を控えた金曜日の10時過ぎ、東城から呼び出しがあった。
大阪管轄の客との揉め事で話があるという。
執務室に入ると、晴れ渡った空の下にくっきりと浮かぶ皇居の森を眺める東城の背中が目に入った。
相変わらず、背筋が伸び、凛とした後ろ姿である。
だが、その後ろ姿とは反対に、振り向いた顔には若干屈託の色が滲んでいた。
「まあ、座れ」の言葉を待って、ソファーに腰かけると、
東城も向かい側に腰を下ろした。
「市場はどうだ?」
開口一番の言葉はいつも通りである。
「複数のチャートポイントが絡む12円近辺ではドルが底堅い様です。
あそこが抜けると、面白かったのですが、残念ながら13円方向に戻ってきてしまいました。
ユーロドルは1.20台に乗ってから上値に重たさが感じられますが、9月の高値(1.2092)近辺ですから無理もないことかと。
もっとも、根本的にユーロを見直す時期が近づいているのかも知れません。
世界の外準(外貨準備)に占める通貨別シェアは、このところドル建てが減少し、僅かながらユーロ建てが伸びています。
昨年6月にドラギが「デフレ圧力はリフレ圧力に置き換わった」と発言していますが、あの辺りからユーロ相場に潮目の変化が見られます。
早晩、ユーロドルのレンジの下値が1.20に変わる可能性があるのかと・・・」
「そうか、分かった。
ところで、ちょっと大阪で問題が起きてる。
あっちで上手く片付けば良いが、どうも大阪支店長の話だと拗れそうだ。
堂島支店の企業担当が工作機械メーカーの三山製作所に3年先までの輸出(ドル売り円買い)予約を強いたらしい。
‘らしい’というのは、堂島支店の担当が客も納得した上でのことだと言い張ってるからだ。
とは言っても、責任転嫁をしている時間はない。
3月末が迫っているため、このままドル高が進行すれば、三山の決算期における為替評価損が膨らむことになる。
コストは108円台、予約残は60本だから、現状のレートで換算すると含み損は約2億数千万円だ。
それと、三山の輸出先である米国企業からの受注が激減しているという話もある。
仮にその状態が続けば、未使用のショートポジションが発生するから、事は結構深刻だ」
「でも何故、うちの堂島支店の担当が、そこまで長期のフォワードを予約させたのでしょうか?」
「以前にシンガポール支店のトレジャリー部門にいた柿山が担当だ。
彼は市場部門から外されたことを今でも根に持ってるそうだ。
その辺りに原因がありそうだが、もう少し事情を調べてみてくれ」
「了解しました。
至急、コーポレート・デスクの浅沼を大阪に行かせます」
「そうか、分かった。
でも、最終的にはお前が決着を付けるマターだ。
出来る男には、次から次へと難題が降りかかるな」
笑いながら言う。
「本部長、ここは笑うところじゃないでしょう」
半ばむっとした表情を浮かべながら言う。
無論、東城だから許される口のきき方である。
「悪い、悪い」と言いながら、東城はデスクに向かって歩き出していた。
もう話は終わりだということである。
ドアを開けようとしたところで、
「新年会は近い中に‘下田’で良いか?」
と、後ろから声がかかった。
労いを入れるところが東城らしい。
「はい、ありがとうございます」
向き直って、軽く会釈をしながら答えた。
わざとらしく少し笑みを添えるのも忘れなかった。
自席に戻るなり、
「浅沼、ちょっとこっちに来てくれ」
と声を掛けた。
今しがた東城から聞かされた話をそのまま彼に伝え、
来週早々に大阪出張を命じた。
その日の晩、米12月雇用統計の発表があったが、銀行には残らず、社宅でラフロイグのグラスを傾けながら統計結果を待った。
統計結果は思わしくなかった。
NFP(非農業部門雇用者数)が市場の予測を下回り、ドル円は13円前半で伸び悩んだ。
ニューヨークの沖田に電話を入れたが、‘もうこっちの連中はやる気はなさそうです’と言う。
それを聞いて、モニターから逃れることにした。
ベッド脇のテーブルにグラスとボトルを運び、そしてBGMにAnn Burtonの気怠いボーカルを選んだ。
ベッドに寝転ぶと、少し酔いの回った頭の中で予測が空回りした。
それでも何とか当りを付けた。
来週は短期の保ち合いを放れる。
先週後半の値動きから上に放れそうだが、そろそろ需給が緩みそうな(実需のドル売りがでそうな)気配もあり、基調としてのドル買いにはならないはずだ。
現在のポジションは14円前半のショート50本、12円30のロング50本のみである。
できれば50本ロングを適当に利食い、そしてショートはそのまま残しておきたい。
そんな展開になれば良いが・・・。
土曜日の晩、国際金融新聞の木村に来週のドル円予測を送った。
木村様
明けまして、おめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
13円台は値頃感、相場勘、そしてチャートポイントが絡み合い、揉み合いかと思います。
依然として基本的には、ドルの上値は重たく、ベアリッシュ・バイアスです。
予測レンジ:111円~114円10銭
キー水準:上は113円75銭、下は112円前後
いつも通り、行間の埋め草は適当に頼みます。
以下、ご参考まで
米税制改革法案の実現やFEDの正常化プロセス(利上げ)という与件がありながら、ドルに力強さが感じられない。
昨年を振り返れば、米利上げがドルを押し上げた経緯はない。
昨年12月のFOMCでは今年2~3回の利上げを行うというのが内部のコンセンサスの様だが、それがドル高を牽引するとは思われない。
以前にお話した米イールドカーブの「フラットニング→逆イールドカーブ」が徐々に顕在化しつつあり、「株のクラッシュ→ドル急落」には警戒を要する。
IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了
メールを出し終わった直後、スマホが鳴動した。
阿久津志保からの電話である。
「了、明日会える?」
昨年からの約束である。
断る訳にはいかなかった。
「ああ、良いけど」
「何だか、疲れてるみたい。
それじゃ、後で時間と場所をメールしておくから、明日必ず来てね」
「分かった」
二人同時にスマホを切った。
会えば抱くことになるのが分かっている。
それが今は億劫でもあり、憂鬱でもある。
(つづく)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。