ゴールデンウィーク中の2日、ニューヨーク市場でドル円は米長期金利の上昇を背景に一時10円05(110円05銭)を付けた。
臨場感のない社宅にいるせいか、大台が変わった割にはモニターの値動きが淀んで見える。
もう6杯目になるラフロイグで緩み切った脳の影響があるのかもしれない。
先週仕込んだドルロングを手仕舞うのなら、この局面しかないはずだがピンと来ない。
既に日付が変わった夜中、山下に電話を入れてみることにした。
ニューヨーク支店長に背負わされた収益増の話が潰れたことも連絡しておく必要がある。
サイドテーブルに置いてあるスマホに手を伸ばした。
「今、大丈夫か?」
「あっ、了さん、今晩は。
大丈夫ですが」
「どうだ、儲かってるか?」
「はい、こっちにいるとユーロが良く見えて助かります。
ユーロドルの売り回転が順調で上手く行ってます」
「そうだな、確かにそっちはユーロが見やすいことは事実だ。
いずれにしても何よりだ。
ユーロが軟調な理由は、正常化に向けてのECBの具体的言質が得られないことやドイツの景気悪化というのがメディアの理屈だが、何かお前からのコメントはないか?」
「1.19の手前では、欧州のファンドが一旦買い戻すという話ぐらいでしょうか・・・」
「そこは年初来安値だからそうだろうな。
ドル円はどうだ?
東京から110円台の売りオーダーが大分回ってるはずだが、追加は入ってないか?」
「大京(大京生命)から40(110円40銭)で100本、豊中から50で50本がダイレクトで入ってきました。
10円台は都合、400本ほどの売りでしょうか」
「予想以上に10円台の売りが多いな。
今いくらだ?」
「92(109円02銭)アラウンドです」
「それじゃ、ロンドンで50本、そこで50本、売ってくれ」
「Both 93です」
「了解、90で良いよ」
「ありがとうございます」
「ところで例の件、片付いたぞ。
もう心配しなくても良い」
「えっ、本当ですか! 一体、どんな手を?」
「俺は東城さんを頼っただけだ。
あの人が役員会で大博打に出たらしい。
そのうち、田村経由で嶺さん(常務)の仕返しが俺に飛んでくるかもな」
‘粘着質の彼らのことだ。
あり得ない話ではない’
「ありがとうございました。
でも、了さんに迷惑がかかると拙いですね」
心配そうに言う。
「彼らの嫌がらせにはもう慣れっこだから大丈夫さ。
ところで、さっきの売り50本は利食いだけど、残りの50本はショートメイクだ。
こっちが休みの間、上の50(110円50銭)がtakenしたら電話をくれ。
それじゃ、頑張れよ」
「はい、頑張ります。
ありがとうございました」
‘ディールも上手く行ってる様だし、彼も当分の間は大丈夫だな’
それ以降、ドル円は週末まで高値を更新することはなかった。
週末のニューヨークで発表された米4月雇用統計ではNFP(非農業部門雇用者数)増が市場の予測を下回ったことや平均時給が前月比低下したことがドルの上値を抑え込んだ。
’FEDの利上げペースの加速観測が後退したことがドル売りにつながった’というのがメディアの論調だが、統計前に作り過ぎたドルロングの投げもある。
ドル円は一時8円65(108円65銭)まで下落した後、再び9円台へと反発したところで週を越すことになった。
土曜日の晩、BGMにKeithの‘Last Dance’を流しながら、社宅のベッドで仕事のことを考えていた。
Keithの優しいピアノの音色に乗せてCharlie Hadenのダブル・バスが2LDKの空間に響く。
時折ベッドから起きては、サイドテーブルに置いてあるハートランドのボトルを口に運ぶ。
口を潤してはまた寝転ぶ。
1時間ほど前からこんなことを繰り返しているが、考えがまとまらない。
新年度に入ってからも収益を重ねてはいるものの、最近根っこのポジションが持てていないことが苛立ちにつながる。
確かに4月以降はそんな相場付きではあったが、自分本来の稼ぎ方ではないのが気に入らない。
本店の外国為替市場課長のポジションは何かと会議などの雑務が多く、一日中ボードに張り付いていられないという問題もある。
だからこそ、根っこのポジションが必要なのだ。
あれこれ考えているうちに、少しずつ足元のことが頭の中でまとまってきた。
‘一連のドル買いの正体は資本筋と投機筋だが、腹いっぱいになるまで売りを飲み込んだはずだ。
週末の米雇用統計で投機のロングはそこそこ投げさせられた感じもするが、まだ結構残っている。
とすれば、来週の9円台後半は彼らのヤレヤレ売りが出る可能性が高い。
とりあえず、来週前半までは90(109円90銭)のドルショートは放っておくことにしよう。
もしかしたら、こいつが根っこのポジションになってくれるかもしれない’
そんな期待感が湧いてくると、少し気分も晴れ、岬の声が聞きたくなってきた。
‘現金なものだ’
ピローの横に置いたスマホを手にすると、岬の短縮番号を押した。
「まだ、金沢か?」
連休中は金沢美術工芸大の集中講義を受けると言っていた。
「ええ、明日松本に戻る予定。
了は、また社宅でスコッチ?」
「まあ、そんなところだ。
いつ会えそうだ?」
「今月の松本クラフト・フェアが終われば、母の店が少し暇になるわ。
そしたら、いつでも」
「そっか、わかった。
ところで、金沢では何か収穫があったのか?」
「ええ。
特に工芸に関してはなかったけど、何となく将来の方向性が見えてきた様な気がする」
「ふーん、例えば?」
「そうね、上手く言えないけど、やるべきこととかかな・・・。
今度会う時までにまとめておくわ」
「随分、大袈裟だな?」
「坂本の件で懲りたし、少し新しい生き方を考え直してるところ。
だから大袈裟になったって当然でしょ」
「何となく分かるけど、その新しい生き方ってやつに俺は入ってるのか?」
「入っている様な、いない様な」
電話越しの笑い声もどことなく思わせぶりである。
やりとりが面倒になり、
「まぁ、何だか込み入ってる様なので、会った時に聞くよ。
それじゃ、切るけど」と半ばなげやりに言った。
「おやすみなさい」という岬の声が普段通りに返ってきた。
音量を落としたままの‘Last Dance’がまだ流れている。
トラックは皮肉にも‘Goodbye’だ。
岬の姿が少しずつ遠くなるのがわかる。
‘勘が当たらなければ良いが’
自然とデスクに置いてあるラフロイグのボトルに手が伸びる。
ショット・グラスに注いだ琥珀色の液体がいつになく濃く見えた。
国際金融新聞の木村宛ての来週のドル円相場予測のメールには、
「再び110円台を覗けなければ、108円台割れも。
予測レンジ:107円~110円20銭」
とだけ書いて送った。
ほどなく返信があった。
「いつもありがとうございます。
来週からのTV出演も宜しくお願いします」と書かれていた。
‘余計なお世話だ’
(つづく)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。