月曜日(9日)の午前中、ドル円に下がる気配は見られなかった。
「沖田、もう下は無理そうだな」
「そうですね。
客も輸入(ドル買い)が多いですし、微妙に上に行きたがってる感じもありますね」
「そっか、50本買ってくれるか?」
「45(110円45銭)です」
「ありがとう、先週のショート(111円01銭の売り)の利食いで処理を頼む」
「了解です」
「野口、ユーロドル、50本売ってくれるか?」
「65(1.1765)です」
「サンキュー、下のロング(1.1605の買い)の利食いに充ててくれ」
「了解」
「二人共、どう思う?」
「ドラギ(ECB総裁)が利上げに慎重な姿勢を維持していることを考えると、ユーロ圏全体の景況感が今一つなんだと思います。
主軸国ドイツのIFO景況感指数が低下しているので、ユーロを追いかけて買うのはリスクが高過ぎるかと。
ここからのユーロドルはショートで臨もうと考えています」
ユーロについて野口が言う。
それに沖田が続く。
「CPIの水準は2%に達してますし、この先のフェド(FRB)の仕上げは正常化ではなく、引き締め的なものと考えて良いかと思います。
言い換えれば、最近課長が言ってる様に、‘フェドがこのまま利上げを急げば、先々景気をオーバーキルする可能性が高い’ということです。
ただ、現時点で市場はそこまで考えて動いていないのも事実です。
まぁ、9月のFOMCが近づくに連れて、年内の利上げ回数とか、利上げ幅とかの話が、また市場の材料になるのかと。
中期的な話ば別として、今週辺りは、ここから少し買って、過熱感が出たとろこで売るという戦略で良いのかと考えています。
値動きも上ですしね。
第一ターゲットは1円39(111円39銭)、第二ターゲットは13円40(113円40銭)ですが、その水準の手前で止まる様でしたら、利食いの売りか、ショートを振る。
逆に抜ける様でしたら、伸びたところで売る、そんな感じでしょうか」
沖田が冷静にまとめた。
「そうだな。
二人共、正しいと思う。
米中のやりとりに惑わされ、リスクオンになったり、リスクオフになったりするが、少しドルの上、ユーロの下を見ておくか。
それじゃ、今週も頑張ろう」
そう言い、意見の摺り合わせを終えた。
午後に入ってもドル円は110円50銭を中心とした模様眺めの展開が続いた。
ディーリングをするには最悪の日だが、事務処理や未読メールを整理するには最適な日である。
Outlook を クリックすると、50以上の新規メールが入っている。
件名を一覧して、不必要なと思われるものを削除すると、二件しか残らなかった。
一件は重要会議の日時の連絡であり、別の一件は東城からのものだった。
東城からのメールはニューヨーク支店長清水から東城宛て送られてきたものの、転送である。
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清水さんからのメールを転送する。
横尾君がNYへの転勤に際して挨拶に来るそうだが、現場間の打ち合わせもあるだろうから、適宜取り回しておいてくれ。
東城
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東城本部長
仙崎を支店に出張させてくれた件、改めて感謝する。
ただ、彼が極めて優秀なことは認めるが、もう少し上の者に敬意を払う様、教育しておいてくれ。
ところで、スイスの横尾がNYに転勤する際、君のところに挨拶で寄りたいと言っている。
彼もNYのトレジャラーだ。
「縦割りの本部制」だから、彼が本部長である君のところに転勤の挨拶に行くのは当然だ。
宜しく頼む。
NY支店 清水
p.s.横尾の出張日時は7月12日(金曜日)
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東城には‘了解しました’とだけ書いて返信した。
清水は東城が俺にメールを転送するのを承知の上で、嫌みを書いてきたのだ。
敢えて「縦割り本部制」を挿入してきたのは、頭取から本部制ルールを破ったことを叱責されたことを根に持っていることの証である。
‘呆れてものも言えないな’
金曜日の午後、人事部の女性に付き添われた見慣れない男がディーリング・ルームに入ってきた。
横尾である。
身長は175センチ前後、がっちりした体躯の持ち主は目が鋭い。
女性は横尾を東城の部屋に案内すると、その場を後にした。
それから小一時間ほどすると横尾が部屋から出てきた。
二人の会話が終わった様である。
すると部長の田村が
「よく来たな、横尾」
と言って、自ら東城の部屋の前まで歩み寄って行った。
二人は日和の上司と部下の関係だ。
田村の話では、横尾は自分が手塩にかけて育てた優秀な為替ディーラーだそうである。
数日前、田村が「横尾があっちのトレジャラーになれば、うちの本部も相当に強固になるのは間違いない」などと言っていたが、それはそれで良いことだ。
ただ、横尾の人間性が気に懸かる。
二人は部長席で談笑しているが、田村はいつになく楽しそうだ。
暫くすると、田村の「オーイ、仙崎君」という声を背中で聞いた。
ディーリング・チェアを回転させると、田村が手招きしている。
‘自分で横尾をこっちに連れてくれば済むものを、自身の行内における立場を見せつけたいのだろう’
「仙崎君、彼が横尾君だ。
まあ、宜しく頼むよ」
田村が機嫌良さそうに言う。
「初めまして、宜しくお願いします」
と素直に挨拶した。
「こちらこそ、宜しく。
優秀な仙崎君と一緒に仕事ができて嬉しいよ」
親しみの籠った挨拶が返ってきた。
‘挨拶からは何の違和感も感じられない。
噂とは違い、本当は好人物なのか’
横尾を部内の人間に紹介し終えたところで、彼が‘少し話がある’と切り出してきた。
「場所を移動した方が良いでしょうか?」
「そうだな。
できれば」と横尾が言う。
「応接室にいる。
何かあったら、呼んでくれ」と沖田に言い残し、ディーリング・ルームの隣にある応接室へと向かった。
「お話とは?」
「言っておくが、俺は稼げる男だ。
ただ、部下に足を引っ張られるのは困る。
山下は君を尊敬し、そしてディーリングもそこそこと聞いているが、バジェット(予算)クリア程度の実力じゃ物足りない。
そう、彼にはもう少しグリーディーになって(欲を出して)貰いたいんだ。
それにローカルスタッフも、それ程優秀なヤツはいないらしいな。
それも困る。
つまり、状況次第で人事に手を加えるつもりってことだ」
ディーリング・ルームでは紳士然としていた横尾が突然、牙を剥いてきた。
‘どうやら、噂通りの男の様だな。
それにしても、やけにニューヨーク支店の内部事情に詳しいのが気に懸かる。
清水支店長はローカルスタッフのことまでは知らないはずだから、トレジャリー部門に内通者がいるってことか’
「横尾さん、私に何が言いたいんですか?」
「端的に言えば、君に勝ちたいだけだ。
世界でも有数の為替ディーラーと言われている仙崎了という男にな」
「であれば、ご自身のトラックレコードで示すだけで良いじゃないですか。
何も山下や他のスタッフを巻き添えにする必要はないでしょう」
「だめだ。
自身の実績もさることながら、部門のヘッドとしては全体の収益も重要だからな。
適宜、人の入れ替えは行っていく」
「横尾さん、あなたの考えは間違ってる。
部門のヘッドは自身の実績を上げながら、部下一人一人のポジション管理もしなければならない。
部下のポジションが偏り過ぎていれば、あなた自身のポジションで調整しなければならないんだ。
たとえそのポジションが自身の相場観とは違っていても。
そしてあなたは自分の行動で部下を引っ張って行くべきなんだ。
むやみに人を入れ替えるのは止めた方が良い」
「言ってくれるじゃないか。
だがな、そうやって部下を庇ってしまえば、部下は成長しない。
まぁ、いい。
俺は俺のやり方でやるよ」
その顔にはさっきまで見せていた穏やかな目つきはもう微塵もなかった。
‘もはや会話を続け様がない’
彼に先んじてソファーから立ち上がった。
ドル円相場は、日々続伸し、金曜日には112円80銭を付けた後、112円35~40銭の気配で週を終えた。
横尾という人物に会い、暗澹たる気持ちで迎えた週末の土曜日、体が気怠く夕方までベッドに体を横たえていた。
志保と贅沢な時間を過ごしていた一週間前の気分とは雲泥の差である。
このままだと山下が苦境に立たされるのは目に見えているが、今彼に言えること、やってあげられることは何もない。
‘まぁ、何かが起きたら、その時に動くしかない’
一気にベッドから抜け出ると、シャワーを浴びた。
少しずつ生気が甦ってくる。
ザっと髪の毛を乾かし、冷蔵庫からハートランドのグリーンボトルを取り出すと、一気に半分ほど飲み干した。
‘早いとこ、一仕事済ませてしまうか’
Dave Grusin の ‘Fabulous Baker Boys’のサントラをBose のミュージック・システムに差し込んだ。
映画の内容を知っていると切なくも聞こえるメロディーだが、不思議と仕事のノリが良くなる。
PCに向かうと、outolookをクリックした。
国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測を書くためである。
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木村様
トランプは貿易収支の赤字を企業収益の赤字と勘違いしている節がありますね。
「赤字=マイナス=悪」というイメージしか彼の頭にはないんでしょうか。
国際収支表の見方・読み方を今更彼に教えても仕方のないところですが、ムニューシン(財務長官)あたりがその辺を教える必要があるのかとも。
もっとも、‘トランプの頭ではそれを理解しえないから、教えない’というのが事実でしょうか。
話はドル円相場に変わりますが、正直言って最近相場が見えていません。
感覚的にはドルに底堅さを感じていますが、ここまで買われたのは節目節目でショートが出来たからだと思っています。
そんな程度ですから、予測レンジだけをお伝えしておきます。
来週の予測レンジ:111円~113円75銭
IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了
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メールを送り終えた途端、スマホが鳴った。
岬からである。
(つづき)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。