月別アーカイブ: 2018年9月

第二巻 第5回 「墓前に誓う」

週初(17日)、ニューヨークへと向かった。

ジムの墓前に花と誓いの言葉を手向けるためである。

クイーンズにある墓地にはジムの妻・カレンが付き添ってくれた。
彼女とは銀行のクリスマス・パーティーで一度だけ会ったことがある。

やっと一人歩きし始めたばかりの彼の愛娘、ステイシーが彼女の傍らにいる。
父親が死んだことの意味を深く理解していないのか、母親に手を繋がれた幼子は何故か嬉しそうだ。

暫く歩くと、カレンが「ここよ」と言って、ジムの眠る墓の前で立ち止まった。

墓前に花束を手向けると、目を瞑りながら、
「二人のことは任せておけ。そしてお前の仇は必ず俺が取る」と誓った。

カレンは小さな声で祈りを捧げ、その横でステイシーが同じ仕草をしている。

 

’痛ましいな’

 

それぞれに祈りを終えると、カレンが話出した。

「主人は貴方のことをとても尊敬していたわ。

‘自分は良いボスを持てて幸せだ’とも言ってた。

貴方がこっちにいる時は、‘銀行へ行くのが毎日楽しい’と言ってたぐらいだから、彼は本当にあなたや同僚の方達が好きだったのね」

「僕らはああいう環境の中で仕事をしてるので、どうしてもチームワークが重要なんだ。

彼はそのことを良く心得ていて、チームの成績が悪い時でも皆を元気づけてくれていた。

だから皆、彼のことが大好きで、本当に良いチームが出来上がったと思う」

「そんな彼の話を聞けて嬉しいわ。
ありがとう、Ryo」

「ところで、カレン。
仕事の当ては?」

首を横に振りながら、
「まだそこまで考えるほど、気持ちに余裕がないの」と言う。

「それはそうだな。でも考える気持ちの余裕が出来たら、僕に連絡をくれないか?

親子二人が食べて行くのに十分な給料を貰える仕事がある。

ただ、場所はコネティカットのオールドグリニッジだから、引っ越すしかないけど・・・」

 

‘ここはマイクに頼むしかない’

 

「ありがとう。

考えてみるわ」

「ああ、是非考えてほしい。

友人が運営している会社だ。

彼には相当儲けさせてるから、君の給料ぐらいは全く問題ない」

彼女の顔に少し笑みが浮かんだ。
ステイシーも母親のそんな顔を見てか、無邪気に笑う。

 

‘ジムが亡くなってから、初めて見る母親の笑顔なのかもしれない’

 

「Gimme a hug, Stacy」と言って、腰を下ろしながら手を広げた。

躊躇いもせずにステイシーは胸に飛び込んでくると、軽く頬にキスをしてくれた。

 

‘可愛い子だ。生前のジムはステイシーを見る度、娘にハグとキスを求めていたに違いない。

切ないな’

 

ハグが解けると、幼子は母親の傍らに寄り添った。

「カレン、僕はそこでタクシーを拾う。
連絡を待ってるよ」

「ありがとう。

わざわざ日本から来てくれただけでも嬉しいのに、私の仕事の話まで考えていてくれて、
貴方は本当にジムの言ってた通りの人だわ。

仕事、お願いすることになると思う。

その時はお願いね」

「Contact me anytime.

Take care!」

二人を乗せた車が墓地のゲートを出るまで見送り続けた。

 

二人と別れた後、タクシーを拾い、そのまま支店へと向かった。
一泊の予定なので、ホテルに預けるほどの荷物もない。

支店に行くことは、山下にも伝えていなかった。
突然ディーリング・ルームに現れた俺の姿を見て、皆唖然とした顔をした。

「突然、どうしました?」
山下が聞く。

「ジムの墓前に花を手向けに来ただけだ。

ついでに横尾に挨拶をと思って」

「挨拶って?」

「挨拶は挨拶だ。

まあ、ジムへの手向けは花だけじゃ淋しいからな。

アイツのテンプルに一発喰らわせて、市場部門から叩き出す。

上半期はもう何も数字を動かせないので何もできない。

下半期に入ったら、お前にも手伝って貰う」

「了解です。今日のお泊りは?」

「いつものアストリアだ。

明日帰る。

夜は何のケアも要らない。

ところでご家族はこっちに慣れたか?」

「はい、徐々にピックアップしている様です」

「そっか、それは良かった。

俺は今日アイツに一言残したらそのまま帰るから、見送りも不要だ。

今話した件、また東京から連絡を入れるよ。

それじゃ、奥さんによろしく」

そう言い残すと、横尾のデスクへと向かった。

 

「おう仙崎君、突然に今日は何の用だ?」
平然と言葉を発したが、内心は穏やかでないはずだ。

「何の?

そんなことはお分かりのはずでしょう。

僕の大切な友人が死に追い込まれた。

誰かのせいでね。

墓前に花を手向けに来るのは当然でしょう」

「誰かのせいって、誰のことを言ってるんだ?」

「今更、私に聞くまでもないでしょ。

あなたが一番知ってるはずじゃないんですか?」

「貴様、何の根拠があってそんなことを・・・」

横尾が伏目がちに顔を歪めた。

「根拠って物証のことですか?

あれがそうだとすれば、そうとも言えますが・・・」

横尾の顔がみるみると曇って行く。

 

‘ここは、相手に不安を与えておくだけで十分だ。
きっと俺が帰った後、支店長室に駆け込むに違いない’

 

「勿体を付けやがって。

用件がないのなら、さっさと帰れ。

こっちは仕事で忙しいんだ」

「仕事?

ポジションでも凝ってるんですか、それとも支店長に頼まれた何かの代筆仕事ですか?

それはそれとして、今日は伝達事項があって、ここに寄らせてもらいました。

下半期からは部全体の収益もさることながら、ディーラー個人の収益もしっかりと管理させて頂きます。

もちろん、横尾さん、トレジャラーであるあなた自身の収益もね。

外銀と違って、邦銀ではややもするとその点が曖昧になりがちですが、今後は許されません。

もっとも、日和のエースだった横尾さんに限ってバジェット未達なんてことはないでしょうが。

これは本部長の方針ですから、宜しくお願いしますね、トレジャラーの横尾さん」

テレビドラマの様なクサイ言い回しだが、ジムの無念を込めて念を押す様に言い放った。

二の句が継げないのか、右手の甲をこっちに向けながら振った。
もう帰れと意味だ。

こっちを心配そうに見つめる山下に、thumb up しながら、ディーリング・ルームを後にした。

支店が入るビルを出ると、曇ってるせいもあってか、5時過ぎだと言うのに結構暗くなっていた。

パークアヴェニューを南北に走る車の半分はヘッドライトを点灯している。

改めて見るそんな光景は実に美しい。

 

‘やはり、こっちは良いな。
戻ることはあるのだろうか?’

 

週初に112円を挟んでうろうろしたいたドル円相場は、週末の金曜日に(21日)1月以来の高値水準となる112円88銭へと上昇した。

IMFが7月に公表した「貿易戦争に関する国際的な影響」関する資料によれば、最悪のシナリオで米国のGDPは1年目で0.8%減、世界では0.4%減である。

過去最高水準に上るNYダウ、それに連れるかの様に日経平均株価も高値を追う。

ひと頃はトランプが中国への追加関税発動を示唆する度にリスク回避に走った市場だが、今リスクを無視し出した。

円売りドル買いに動き出した為替市場、高値を追いかける株式市場、阿鼻叫喚の修羅場が近いのかもしれない。

リーマンショックから丁度10年の時が流れた。

‘身を引き締めなければ’

そんな内容を連ねた雑文を書いた後、「来週の予測レンジ:110円50銭~113円40銭」を文末に添えるのを忘れなかった。

いつもの国際金融新聞の木村へドル円相場予測である。

outlookの「送信」にマウスのポインターを合わせると、ゆっくりクリックした。

その瞬間、ウィスキーグラスの中の氷がカタっと音を立てながら琥珀色の液体を揺らした。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第4回 「ヘンリー・ハドソンの悲劇」

ブレグジットを巡って「英国とEUとが現実的な合意に至る」との見方が強まる中、ポンドとユーロが対円で買われ、その結果ドル円が強含み出したのである。

どことなく新興国に対する懸念も薄らぎ、前週までのリスク回避の円買いムードは市場から消えたかの様である。

ニューヨーク支店が客のオーダー処理をミスしたことで、期せずして取ったドルショートも
全て手仕舞った。

110円割れの可能性もあった先週時点から場の雰囲気が一変しているのだ。
そんな市場の機微が感じ取れる。

‘これでもう、下期に入るまでポジションを取るのは止めておくか。

上手く相場に乗っている時は徹底的にポジションを取るべきだが、今はただ、余裕のある時に過ぎない。

こんな時は、得てしてポジション管理が甘くなる。

だから、場に入らない方が良い‘

「もうインターバンクもコーポレートも、バジェット(収益目標)は完全にクリアしている。

そろそろ上期の収益を固めることにする。

これからは当分、客のカバーに徹するから、そのつもりでいてくれ」

ドル円が111円台後半を覗きだした火曜日(11日)の午後、沖田に告げた。

「了解しました」

「お互い、少しのんびりしよう。

でも、お前のことだ。
多少でもポジションを持っていたいだろうから、それはお前に任せる。

但し、収益が増える分には問題ないが、マイナスは片手(5000万)までにしておいてくれ。

それと、例のテレビ番組の方もお前に任せっぱなしだが、大丈夫か?」

沖田が右手の親指を立てて、ニコリと笑う。
ディーリング・ルームでは見たことのない笑みを浮かべた。

’仕事もでき、真面目だが、そっちに関しては普通の男だな’

「美人の中尾さんに会えるのが楽しみですし・・・」

「おいおい、気を付けろよ。

俺と違って、お前は妻子持ちだぞ。

‘投資の最終判断は自己責任で’だけどな」
二人の笑いがデスク中に広がった。
笑いの意味も知らない他の部下達が、怪訝そうにこっちを見た。

その日の晩、ラフロイグを飲みながら寛いでいるところに、固定電話が鳴った。
11時直前、もう直ぐNHKのMLBサマリーが始まる時間だ。
画面だけは追いたくて、テレビの音をミュートし、固定電話の子機を手にした。

電話の向こうは山下だった。

「課長、ジムに拙いことが・・・」
言葉を続けられないほど慌てている。

「落ち着け!
ジムがどうした?」
山下の息を吸い込む様子が伝わってくる。

「はい。

ジムが今朝、元気そうな顔でオフィスに現れ、いつも通り業務に就きました。

ところが、暫くすると様子が変だったので、隣を見ると一件のメールを食い入る様に読んでいました。

読んでいる間中、‘fuck’とか‘shit’とか、ダーティーワードの連発です。

その後、メールを何処かに転送し終えると、急に椅子から立ち上がり、横尾さんのデスクの前に行き、一言二言発した後、横尾さんの左顔面に右ストレートを一発。

ざっと、そんなところです」

「それで?」

「ジムはデスクに戻ると、PCをオフにし、真っ赤な顔をして何処かに消えてしまいました。

横尾さんは今、応接室で横になっているところですが、恐らく今日はデスクに戻ることはないと思います」

「それで、ジムはお前に何も言わなかったのか?」

「‘もう、戻れない。
いままでありがとう‘とだけ」

「結構拙い話だな。

横尾からのメールを読んで、そんな行動に出たことは間違いないが、一体何が書かれていたんだ?

彼は冷静で、滅多なことで人を殴る様な男じゃない。
余程のことがメールに書かれていたに違いないな」

それで、携帯に電話は入れてみたのか?」

「はい、もう5回も入れたのですが、電源オフの様です」

「自宅へは?
奥さんが電話に出たのですが、戻っていないとのことでした」

「そうか・・・。
いずれにしても、コンタクトできるまで動きが取れないな。
彼と連絡が取れたら、必ず俺に電話を入れる様に伝えてくれ」

「了解しました」
どちらからともなく、電話を切った。

後味の悪い電話だった。

グラスに半分ほど残っていたラフロイグを一気に喉に流し込んだ。
喉が受け入れず、咽返った。

山下からジムの訃報が届いたのはそれから6時間後(12日早朝)のことだった。

朝のコーヒーを飲み終え、社宅を出ようとした矢先のことである。

「課長、ジムが亡くなったそうです。
少し前、彼の奥さんから電話があり、ヘンリー・ハドソン・パークウェイ*のガードレールに激突・・・。

ブレーキ痕もなく、大量のアルコールが検出された・・・。
つまり、自殺ということです。

課長、もうこれ以上の話は・・・」
山下の声が途絶えた。
涙で話が出来なくなった様だ。

ディーリング・ルームのデスクに着くなり、
「沖田、ジムが交通事故で亡くなった」
と言葉を発した。

「えっ、ジムってニューヨークのジムですか?」

「ああ、山下の話では、どうやら自殺らしい。
自殺だとすれば、原因は先週の曙生命のオーダー処理に関係している」

「でも、横尾さんの‘クビ’発言は物の弾みで出ただけですよね?」

「そうだ、周囲の皆もそう受け止めた。
そして本人もそう受け止めた。
その証拠に昨日、ジムは元気に支店に出勤してきたそうだ。

ところが、あるメールを見た途端、彼の態度が急変したらしい」
昨晩の山下の話を沖田に聞かせた。

沖田と話をしながら、オーバーナイトで送られたきたメールを一覧した。
海外から毎日30~40件のメールが送られてくる。

メールの取捨選択をしいていると、ニューヨーク支店からのメールの中に見慣れない@マーク前のアドレスを見つけた。
件名は「I.O.U.*」、そしてadobeが添付されている。

間違いなくジムからのメールだ。
あいつが支店のPCから最後に送ったメールに違いない。

メールの本文は簡単な内容だが、彼の俺への気持ちが込められていた。

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Ryo

いつもボスには借金ばかりしていたな。
プライベートでも、そしてディーリングでも。

曙の件でも、助けてくれたらしいね。
山下さんから聞いたよ。
ありがとう。

Ryoは最高のボスで友人だった。
貴方と巡り合えて良かった。
そして貴方とまた、仕事がしたかった。

Good Luck!
Thanks again

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沖田が俺を見ていたが、流れる涙を堪えようとはしなかった。

少し気持ちが落ち着いてきたところで、添付ファイルを開くと、そこには愕然とする内容が書かれていた。

横尾と清水の連名で書かれたジムへの解雇通知である。

読み進むうちに、握りしめる拳が震え出すのが自分でも分かった。

‘これが部下を持つ立場にある人物、そして組織の頂点に立つ人物が書くべき言葉なのだろうか’

メールに一言だけ添えて、東城に転送した。

数分後に「お前がそう思うのなら、それで良い。俺が責任を持つ」とのメールが返ってきた。

‘あの人らしいな’

週末(14日)、ドル円はクロス円の買いに背中を押されながら、112円17銭へと跳ねた。

ブレグジットや新興国に対する懸念が薄らぐ中、「リスク回避的な円買いの巻き戻しで円売りが加速している」とメディアも煽っている。

だが、もう相場のことはどうでも良くなっていた。

いつも土曜の晩に送っている国際金融新聞の木村への来週の予測も簡単に済ませた。

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木村様

友人が急逝しました。

心中、穏やかならぬものがあり、簡単な予測とさせてください。

ドル円は少しビッド気配ですが、112円台ではドルの上値が徐々に重くなるかと思います。

予測レンジ:110円50銭~113円。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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送信し終えると、ソファーテーブルに置いてあるラフロイグのボトルを手に取り、琥珀色の液体をショットグラスに注いだ。

こんな日のBGMは’Late Lament’ 以外にない。
それも、この作品を生み出したPaul Desmond のサックス演奏ではなく、Keith のピアノ演奏に限る。

’Late Lament’が組み込まれたアルバム「枯葉」のDISC2をBOSEのWave Music Systemに押し込み、トラックを一つ送った。

‘ジム、何もしてあげられなくて悪かったな。

墓参りは遅くなる。

今はこの曲で許してくれ’

Lament、どの国の言葉にも負けないほど、今の心境に合う響きだ。
そしてこのメロディーも。

目を瞑ると、アイツが‘Two thumbs ’を青空にupした姿が浮かんできた。

支店のソフトボール大会で、彼が逆転ホームランで勝利を決め、ホームに戻ってくる時の姿だ。

‘お前の好きなヤンキースの今年の地区優勝はもうだめだけど、もしかしたらワイルドカードを勝ち上がり、リーグ優勝、そしてワールドチャンピオンもあるかもな’

涙が頬を止めどなく伝い落ちた。

(つづく)

*ヘンリー・ハドソン・パークウェイ
ハドソン川沿いを南北に走るパークウェイ(乗用車専用道路)

*I.O.U.
I owe you

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第3回 「You’re fired」

週初(3日)から、ドル円は111円台前半での揉み合いが続いていた。

そんな展開が続く中、5日の午後11時過ぎ、スマホが鳴った。
いつになく、音が大きく聞こえる。

‘こんな時は、悪い話が多い’

「課長、お寛ぎのところ、申し訳ありません」
いつになく山下が慌てている。

「どうした?」

「はい、東京からのリーブ・オーダー75(111円75銭)の売り100本(1億ドル)ですが、一本も付けることができませんでした。

私のミスです」

「確か、それは曙生命のオーダーだな。
とすれば、他行にもオーダーを預けてるはずだ。

それで、上はどこまでだ?」

「76(111円76銭)です」

「とすると、一本も付けられないって話は先方に通じないな。
で、今幾らだ?」

「60アラウンドです」

「200本売ってくれ。
少し時間がかかるかもな。

出来たら、電話をくれ」

「了解です」
スマホを切る瞬間、山下の部下達が動き出す気配が聞こえた。

数分後、スマホが鳴った。

「アベレージ、60(111円60銭)です」

「分かった。
ところで、76でどの位出合ったと思う?」

「ブローカーに聞いてみたのですが、30本程度と言ったところでしょうか?」

「そうか、30本か。

76がそこまで出合っている以上、全部付けないと、曙が苦情を言ってくるな。

ここは俺が全部被る。

100本分の75と60との値差は俺が持つ。
残りの100本の売りコストを下げて処理しておいてくれ」

「了解しました。
ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」

「そんなことはどうでも良い。

どうせドルは下がる。

100本のショートが利益を生むから問題ない。

ところで、75で一本も売れなかったとはどういうことだ?

ブローカー預けか、EBSにでも入れて置けば、多少でも売れたはずだが・・・。

お前、俺に何か隠してないか?」

‘山下ほどの男がそんなミスを犯すはずはない’

「実は・・・。

横尾さんが絡んでいます」

と言いながら、山下が事の顛末を語り出した。

 

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「おい、山下、バジェットの件で話があるから、ミーティングルームに来てくれ」

「ちょと場がバタついているので、午後に回せませんか?」

「支店長が急ぎで資料が必要だと言ってる。
急ぎだ」

「分かりました。
ジム、このオーダー、皆と一緒に処理しておいてくれ。
できるだけ、先にブローカーに預けるか、EBSに入れて置け」

「ハイ、ボス。
Leave it to me!(任せて下さい)」

「I’ll have a meeting with Mr.Yokoo.

Just let me know if something happens」

「Yes, I got it」

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そんな会話から10分後に事件は起きたという。

 

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ブレグジットを巡って「ドイツとイギリスが‘主要な要求を取り下げた」との報が流れ、ユーロ円やポンド円が買われた。

その結果、ドル円は50前後から76(111円76銭)まで急騰し、その後直ぐに下がり出した。

油断していたジムは、オーダーをブローカーに預けず、EBSにも置かなかったため、75の売りを全く捌けなかったという。

トレイニー(実務研修者)がその状況をミーティングルームにいる山下に知らせに来たが、‘時すでに遅し’だった。

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山下の話が終わった後、「それで、横尾さんはどいう指示を?」と尋ねた。

「自分にも責任の一端があることを自覚していたせいか、オーダー処理については何の指示も。

ただ、ジムに‘クビ’だと怒鳴っただけでした。

ジムは自分の手抜かりもあって、横尾さんの‘クビ’という言葉を真に受けた様で、真っ青な顔をして何処かに行ってしまいました。

ちょっと、ヤバイ状況です」

「話は分かった。

お前が‘ミーティングを午後にしてくれ’と言ったにも関わらず、それを無視した横尾さんに大きな落ち度がある。

もうお前は何も心配しなくていい。

ただ、ジムを気遣ってやれ」

「ありがとうございます。

実は、課長に電話する前に、自分でも65(111円65銭)で50本売ってあります。

ですから、さっきの100本のうちの50本は僕の負担ということで」

「そっか。
その売りは賢明だったな。

できれば、100本売っておいて欲しかったけどな」
笑いながら返した。

「あの時点で、そこまではできませんでした」

「そうだな。

お前の売った50本は自分のポジションとして持っておけ。

きっと、ドルは下がる」

「ありがとうございます。

それでは失礼します。

おやすみなさい」

‘それにしても、横尾はずるいヤツだな’

 

山下との話を終えた後、社宅の固定電話から横尾に電話を入れた。

「おう仙崎君か、掛かってくると思ったよ。
例の曙のオーダーの件だろ。

お前がこっちにいる時、ジムの教育が足りなかったから、こういうことになったんだ」

「へぇー、横尾さんも随分と勝手なことを言う人なんですね。

それじゃ、山下が‘場がバタついてるから、ミーティングは午後にしてくれ’と言ったにも関わらず、それを無視したことはどう釈明するんですか?」

「支店長に‘急ぎで頼む’と言われた用件だ。
それを優先するのは当然だろうが」

「横尾さん、あなた、馬鹿じゃないか。
市場を預かる現場の人間の言うことを無視してどうするんですか?

どうせ、清水さんに媚び諂うためにとった行動でしょう」

「貴様、誰に向かって物を言ってる。
俺はお前よりも年次では6年も上だぞ」

「あなたがそう言うのであれば、敢えて言わせて貰う。

ニューヨークのトレジャラーと国際金融本部外国為替課長の行内等級は同じだ。

それに私は業務上の報告をあなたにする義務はないが、あなたは私に報告する義務がある」

横尾が年次のことさえ言わなければ、口に出す必要のなかった下卑た言い方だっただが、この場合、
仕方がなかった。

「貴様、黙って聞いていれば、いい気になって。
ふざけるな!」

「何もふざけてはいませんが。

それにもう一言、言わせてもらいます。

なぜ、あなたはスベってしまった客のオーダー処理に手を貸さなかったんですか?

山下はあの時、損を承知で50本売った。

ニューヨークのトレジャラーとして、あなたはそれを見ていただけなんですか?」

「どうせ、お前のところの客だ。

76(111円76銭)を付けたときの出合い状況から、山下の50本で十分じゃないか」

「曙が付き合っている銀行がウチだけならそうかも知れませんね。

他行が100本オーダーのうち60本付けたら、これから先、曙はウチにオーダーを置かなくなりますよ。

そんなことも分からないんですか?」

「そこを何とかするのが、本店の仕事だろう。
えっ、違うか?」
威圧的である。

‘こんなヤツと話していても時間の無駄だ’

無言で電話を切った。

 

翌日の早朝、曙生命の運用部長から電話があった。

「仙崎さん、やはりお宅のオーダー処理は一番だ。

他行はどこも、20本だけしか付けてくれなかったよ。

これからもオーダーを沢山だすから、宜しく頼むよ」

「ありがとうございます。

頑張りますので、宜しくお願い致します」

‘ディリーングには客のフローは欠かせない。

損して得取れだな’

 

ドル円は金曜日の東京で、110円38銭まで下落した。

前日にトランプが‘日本との貿易の争いの公算を示唆’したことが要因である。

この展開で111円台半ばのショート100本のうち、50本は110円55銭で利食ったが、残りの50本はキープすることにした。

‘トランプの目が対日貿易赤字に向かい出しているのは間違いない。

下旬の日米首脳会談やFFR(新日米通商協議)に向けて、ドル円は下がる様な気がする’

 

週末の土曜日に送ることになっている国際金融新聞の木村宛てのドル円相場予測は簡単に済ませた。

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木村様

少しドルの上値・下値共に切り下がる様な気がします。

来週もドルの上値が111円台後半で重たい様であれば、110円割れもあり得るかと考えています。

予測レンジ:109円20銭~111円80銭

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メールを送信し、デスクの時計を見ると、0時を回っていた。

デスクの上のラフロイグをグラスに注ぎ、北側の窓へと向かい、カーテンを全開にした。

向かいの棟のほとんどの灯りが消えている。

‘真夜中か。
この時間、俺はいつも一人だな’

Miles Davis の ‘Round about midnight’をCD用のシェルフから取り出すと、Bose のミュージック・システムに滑り込ませ、グラスを口に運んだ。

重く切ないトランペットの音色が、真夜中のしじまの中を、湿った空気を運びながら流れて行く。

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第二巻 第2回 「頭取の計らい」

週初27日から翌日までドル円は111円前半で淡々と流れた。

相場が動き出したのは水曜日(29日)のニューヨーク時間のことである。

ブレグジットの実質的な合意期限である10月が近づく中、英EU双方の見解が折り合わないことに市場は懸念を抱いていた。

そうした状況下、離脱交渉においてEU主席交渉官のバルニエが「特例的な提携関係を英国に提示する用意がある」と発言したのだ。

この発言で、ユーロやポンドが買われクロス円が上昇した結果、ドル円も111円83銭まで押し上げられた。

もっとも、翌日(30日)の東京では、次第にドルの頭が重くなり、週末に111円を完全に割り込んだ。

そんな折、国際金融新聞の木村から電話が入った。
「仙崎さんの今週の予測では、111円台後半でのドルの上値は重く、高値は精々112円前後まででしたが、正にその通りでした。
流石ですね」

確かに予測通りの展開だった。
俺も沖田も111円70銭前後で作ったドルショート100本をキープしたままで、今利益を生んでいる。

「ところで、木村さんの今日の用件は?」

「うちの社で、‘年末に向けての国際金融市場の予測’というテーマで株・債券・為替のトップアナリストやトップディーラーによるセミナーを開きたいのですが、仙崎さんに為替部門の講師をお願いできないかと思いまして」

「いや、上半期末の仕上げ時期なので、ちょっと無理ですね。
申し訳ありませんが、お断りします。
他の銀行に目立ちたがり屋が沢山いるので、そっちに当たってくれませんか?」

「でも、デスクが為替は仙崎さんと決めているので、是非ご検討下さい」
話をしているうちに、ドル円が急に下落し、110円69銭に触った。

「木村さん、ちょっと場が動いたので、また」
と言って、受話器を置いた。

「沖田、どう思う?」

「そうですね、このところ110円半ばは上りも下りも引っかかりますね。
一旦、閉じましょうか?」

「そうしよう。
半分、そっちで頼む」

「79(110円79銭)です」

「こっちは77だ。
お前の分は77を使え」

「ありがとうございます」

「もう今日は下がらないな。

ニューヨークはロング・ウィークエンドを控えて、場も静かだろう。

今晩、山下に電話してみるよ。

昨日、頭取とあいつが面談をしているはずなので、何か話を聞けるはずだ」

「よろしくお願いします」
真顔で言う。
沖田も山下のことを相当に気に掛けているのだ。

 

その日の午後11時、ニューヨークの午前10時、社宅に備え付けられた固定電話の短縮番号2を押した。

ニューヨーク支店の為替デスクへとつながる電話番号だ。

「IBT」
現地人の発音だ。
ジムの声に違いない。

「Hi. It’s me」

「アッ、Ryo サン。
オゲンキデスカ?」

「ああ、元気だ。
日本語、上手くなったな」

「ホントデスカ。
ジョウダンデモ ウレシイデス。
イマ、ヤマシタサンニカワリマス」
電話は山下にパスされた。

「課長、こんばんは」

「ああ、今大丈夫か?
問題なければ、会議室からでも電話をくれ。
人に聞かれると拙い」

数分すると、リターンコールが入った。

「頭取との話を聞かせてくれ」

「一応、ここまでの横尾さんの言動をすべて話ました。

実はことが私の妻にも及んでしまいまして、それも合わせて話しました」

「どう言うことだ?」

「課長もご存じの様に、こっちでは機会のあるごとに支店長宅で奥様会があるのをご存知ですよね」

「ああ、奥様連中が支店長婦人を持ち上げる会だな。

支店長婦人に取り入り、ダンナの出世に貢献しようってわけか。

清水さんは本店に戻れば、ナンバーツーも狙える立場だ。

そりゃ、奥様方も夫の出世を狙って一生懸命になるな」

「まあ、そんなところでしょうか。

その奥様会が私の妻と横尾夫人の歓迎会として今週の火曜日に開かれたんです。

その際、妻はまだ娘が乳児なので、一緒に連れて行ったのですが、それが横尾夫人の逆鱗に触れた様で・・・。

‘こういう場に出席するときは、子供はベビーシッターに預けるのが国際畑の夫を持つ妻としての心得じゃないの。非常識よ!’

と、横尾夫人が声を荒げて妻をなじったそうです。

そう言われればそうですが、酷過ぎますよね。

人前で面罵された妻はその場に居たたまれなくなり、気分が悪くなったことを理由にそそくさと帰宅したそうです」

「それは奥さんも辛かったな。
それで頭取は何て?」

「奥様会については、内外を問わず、全面的に中止する様、各支店長宛てに指示を出すそうです。

‘奥様会を通じての関係が良い意味で機能するときもあるが、夫の立場を自分の立場だと勘違いする婦人達も多く、時折り問題にもなっていると聞く。

今後、これを一切禁止にする’

というのが頭取のお言葉でした。

横尾さんのパワハラについては、清水支店長から厳重注意を与えるそうですが、頭取自身がパワハラ禁止とそれが確認された場合の具体的処分を明記し、全店に‘御触れ’を出すことになりました」

「それにしても、お前の奥さんにまでパワハラを仕掛けて来るとは、驚きだな。
確かに横尾は支店長に上手く取り入ってる様だし、恐らく支店長夫妻・横尾夫妻は会食などで既に交流がある。

つまり、嶺常務、清水支店長、田村部長、そして横尾、この連中は日和派ということを相当に意識していることは事実だ。

お前の奥さんの件が、横尾の指図によるものなら、厄介だな。

いずれにしても、頭取の計らいで取り敢えず、一安心ってことか。

だが、横尾って男がこのまま引き下がるとは思えない。
十分気を付けろよ」

「了解しました」

「明日から三連休だ。

奥さんの気晴らしに何処かへ連れて行ってあげると良い」

「はい、そうします。
お気遣いありがとうございます」

本来、横尾が付くはずもなかったニューヨーク・トレジャラーのポストだが、山際の病気の悪化で彼はそれを物にした。

そしてこの人事で、山下の銀行マン人生が捻じ曲げられ様としている。

 

‘あいつの身に何か起きなければいいが。

日和の元エース為替ディーラーである横尾のターゲットは俺のはずだ。

早く俺にかかって来い。

絶対に潰してやる’

 

山下との電話を終えると、冷蔵庫からハートランドのボトルを取り出し、栓を抜くと、そのまま口に運んだ。

ベッドのヘッドボードにピローを立て、そこに背中をもたれた。

BGMには Keith JarrettのピアノとCharlie Haden の ダブルバスのマッチングが素晴らしい『Last Dance』を流した。

Keith の 美しい旋律を Charlieのバスが静かにフォローする様に流れる。
心を静めるには最適なアルバムかもしれない。

ハートランド一本で普段は酔うわけもないが、この日は一本飲み干したところで、睡魔に襲われた。

気が付くと、日付も変わって1時過ぎになっていた。

 

少し体が休まると、ベッドから飛び跳ねる様にして、PCの置いてあるデスクへと向かった。

国際金融新聞の木村への来週のドル円相場予測を書くためである。

ラフロイグをショットグラスに並々注ぐと、PCにログインした。

 

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木村様

 

正直なところ、右左の与件が多すぎて、予測することが無意味にも思える今日この頃です。

ただ、貿易摩擦問題に決着を見るまでは、ドル安に振れやすいことは事実なので、どこかで根っこのドルショートを持てればと考えていますが、良い売り場を見つけられない状況です。

この秋の火種は欧州でしょうか。

ブレグジットの完全合意への疑問、イタリアの財政政策を巡る政権内の問題、シチリア島に勾留されている難民受け入れでイタリアとEUとの反りが合わないこと、そして10月に開始される拡大資産購入プログラム(APP)縮小とユーロ圏景気鈍化、などなど。

欧州ショックに注意しておきたいところです。

ドル円は基本的に前週と同じ予測。

つまり、110円半ば~111円半ばでの揉み合いを予測しますが、その後の相場はどちらか、抜けた方に付く、そんな展開でしょうか。

111円台後半は一旦こなれているので、タイミング次第で112円前後までは覚悟していますが、その辺りはもう一度だけ売ってみたいと考えています。

来週の予測レンジは109円50銭~112円15銭。

ちなみに、週末の米8月雇用統計ですが、世界の耳目がこの統計に集中している割には最近では相場の方向性を決めるほどの要因にはなっていない様ですね。
従って、あまり興味がありません。

 

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

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(つづく)

 

徐々に横尾が仙崎に牙を剥き始める。
何を仕掛けてくるのだろうか。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。