第15回 「近づく9月末」

―――日本海上保険(JMI)運用部からの理不尽な要請を拒絶したが、その反動は思いのほか大きかった。

先方が他部署との取引をも見合わせると通達してきたのだ。

行内にも動揺の輪は広がったが、市場を歪めることはできない。
JMIの総意と良識を信じ、正攻法で押し切った。

果たして禍転じて福となす格好で決着が付いた。

旧知のJMI副社長有村が動いてくれたのである―――

 JMIの件で時間を取られ、収益回復が少し遅れてしまった。

9月末まで、それほど時間が残されていない。

自分の立てた目標を達成するためには、少しトレーディングのピッチを上げる必要がある。

気持ちだけは逸るが、相場付きが悪くなり出しだ。

週初の11日のシドニーで、8円05近辺でギャップアップ・オープンとなってしまったのである。

その前の週に年初来安値8円13を潰し、7円32を付けた後に7円85(107円85銭)で越週した。

その状況を考えて、週初はドルの下値をテストすると見ていたが、もはや市場にその雰囲気はない。

北朝鮮が建国記念日(9日)に軍事行動に及ばなかったことや、ハリケーン‘イルマ’の勢力が弱まったことが背景にあるとは言え、やや虚を突かれた感がある。

この先、ショートカットが出ることは間違いない。

先週9円台で作ったドルショートは8円70で閉じ、1.1880のユーロドルのロングも1.19台で閉じた。

とりあえず利を残したものの、明らかに相場感を失っている。
手詰まりだ。

ドルの上昇は節目々のドル売りで一時的に止まるが、下がらない。

ショートカットを巻き込みながら、その日のニューヨークでドル円は9円51まで吹き上がった。

翌日(12日)もドル円は110円を付け、戻り売りが機能しなくなった。

ECB理事会でユーロ高牽制が出るのを恐れ、少しずつユーロもオファー(売り)気配である。
ECBが実弾介入に出るはずもないのだが、ポジションがユーロ・ロングなのだ。

‘少し状勢を見極める必要があるな。焦るのは止めよう’

 そんな気持ちでスクリーンを眺めていると、嶺常務から電話が入った。

「常務から直接のお電話とは、何か急用でしょうか?」

「いやー、仙崎君、君のお蔭でJMIが大きな取引を持ち込んできてくれたよ。
IBT証券で100億の株式を購入し、国際フィナンス部にもJMIがリードする(幹事役である)シンジケート・ローンの話を持ち込んできてくれたそうだ。
さすが、君はわが行のエースだな。礼を言うよ。
まあ、そのうち一杯やろうじゃないか」

と言うと、一方的に電話を切った。

‘先週あれだけ俺のことを面罵し叱責していた人物が発した言葉とは思えない。
まあ良い、事が上手く運んだんだ’

それはそれとして、全く相場が読めないのが困った。
山下等のカバーは手伝っているものの、プロップ・トレーディング(ポジション・テーキング)ができない。

そんななか、ふとジェネラル・アカウント*(一般勘定)に目をやると、それまでマイナスだったトータル金額がプラスに転じている。

「山下、先週からアカウントに目を通す時間がなかったが、ジェネラル・アカウントがプラスになっている。何故だか分かるか?」

「はい、東城さんだと思います。
先週、課長が離席している間にドルを100本買ってました。
その収益が原因だと思いますが」

‘東城さんらしいな’
「そうか、少し東城さんの部屋に行ってくる」

 東城の執務室のドアを叩きながら、
「仙崎ですが、少しお時間、宜しいでしょうか?」

「おう、入れ」
声がドアと反対側に向かって発せられている様だ。
果たしてドアを開けると、皇居の森を眺める東城の後ろ姿が目に入ってきた。
‘相変わらず、背筋が伸び、凛としている’

「失礼します」

「まあ、座れ」
と言いながら、窓を背にした東城もソファーに近づいてきた。

「JMIの件ではお騒がせしましたが、首尾よく決着が付いた様です」

「そうらしいな。
さっき、嶺さんから電話があったよ。
それにJMIの有村副社長からもな。
お前に感謝していた。
お前から連絡を貰わなければ、会社の評判を落とすところだったと」

あっちで(ニューヨークで)、有村に東城の存在を話したことはあったが、お互いに面識はない。

‘東城さんに電話を入れてくるとは有村さんらしい気遣いだな’

「そうですか。良い方ですよね」

「ああ、これもお前をあっちに行かせたことの成果だな。ところで、話とは?」

「本部長、先週ポジションをお取りになったのですか?
ジェネラル・アカウントがプラスに転じてました。
どうもありがとうございます」

「なあに、礼を言われるほどのことじゃない。
お前がJMIの件で忙しそうだったから、少し手伝わせて貰っただけだ。
途中ヘッドウィンド(逆風)に吹かれたが、昨日からの動きで大分プラスになった様だな。
マイナスを出さなくて良かったよ」
と笑って言う。

‘うちの連中もドル売りに前掛かりになっていた。
敢えて東城はその逆を張り、彼等がロスを出したときの防波堤となったのである。

なかなか抜けきれなかった年初来安値8円13銭を抜いた後の相場で、もう少しドルが下押される可能性があった。
そんな局面での逆張りには勇気がいる。

凄い人だ。
この人の下で働けて良かった’

「確かに私のトレーディングが疎かになっていました。助かりました」

「まあ、たまには俺も市場に入らないと、偉そうなことも言えないからな。
それはそれとして、この数カ月お前には随分と働いて貰った。
お蔭で本部の4~9(上半期)は何とかなりそうだ。
海外もまずまずだ。
ニューヨークはお前が抜けた後、嵩上げこそ出来なかったが、それでもバジェットは達成しているし、他の海外店も問題はない」

「本当ですか。それは良かったですね。じゃ、前祝いですか?」

「調子づくな。それは9末(9月末)を越してからだ。
ところで、お前は夏休みらしい休みを取っていなかったな。
少し休め。

最近、人事も有給休暇の消化については神経質だ。
社宅でも仕事をせざるを得ないだろうが、それは為替ディーラーとしてのお前の宿命だ。
だがここでお前に倒れられたら、俺の監督責任になる。

それにうちもブラック企業扱いされかねない。
そろそろ長野の川も禁漁だろう」

「ありがとうございます。
それでは、来週にでも。
ただ、まだ自分の立てたターゲットに少しだけ届いていません。
それを熟してからということで」

「まあ、勝手にしろ」
苦笑いしながら、呆れた様子を見せた。

「ところで、人事の件ですが、年度末で山下と沖田を入れ替えようと思っているのですが、上に話を付けておいて頂けますでしょうか?」

「そうだな。山下もそろそろ、あっちへ行かせる時期だな。それに沖田も大分、長くなったし、了解した」

来月早々に一杯やることを約束して、部屋を辞した。

 翌日も相場が読み切れないまま、暫くインターバンクをサポートしながら、ジョビングに徹することにした。

ドルを買う気にもなれない、売る気にもなれない、そんな展開である。

週後半の木曜日になっても良く分からない展開が続き、早めに社宅に帰って海外の市場を見ることにした。
来週のFOMCを控えて、今日発表される8月の米CPIを見ておきたかった。

部屋に入ると、ダイニング・テーブルにメモが置かれていた。
母の字である。

‘お前の好きな稲荷寿司と煮つけを作っておきました。
酢飯だけど、念のために冷蔵庫に入れておきます。
お彼岸には帰ってくるのでしょうか? 
たまには父さんのお墓参りにでも出かけませんか。
健康に気を付けてください。母より’

少し感傷的になるが、頭を振って堪えた。

稲荷寿司と煮つけ、それにビールをデスクに運ぶと、マーケット専用のPCのスイッチを入れた。
時刻は8時過ぎである。
10円半ばで少しビッド気配。
CPI発表前だというのに、誰かがドルを買い出したのだ。

9時半、数字が発表された。
総合指数もコアも予想より良い。
ドルが跳ねた。

直ぐにニューヨークの沖田に電話を入れた。
「上はどこまでだ?」

「05(11円05銭)です」

「レベルは?」

「80 around(10円80近辺)」

「50本売ってくれ」
’8月4日の高値11円05は肝の水準だ。
ここを完全に抜けないのであれば、一旦は売りだ’

「81で出来ました」

「ありがとう。ストップだけ11円65で入れておいてくれ。忙しいところ、悪かったな」

「どう致しまして。何かあったら、お電話しますが、とりあえずお休みなさい」

ドルを売ったところで少し気が晴れた。
残りの稲荷寿司を口に頬張った。
‘やはり、お袋の作ったこいつは旨い’

落ち着いたところで、ラフロイグを飲みながら母親にメールを入れることにした。
BGMは Al Haig の ‘Duke’n’Bird 。
芸術的なピアノが良い。

「稲荷寿司、旨かった。どうもありがとう。23日に帰ります」
’少し気の利いたことを書こうとしたが、どうも母親宛てのメールは苦手だ。
短いメールになってしまったが、まあ由とするか’

実家は横浜の永田にあるので、社宅のある神楽坂からは少し遠い。
だが、母は時間を見つけては、社宅の掃除や夕飯の用意をするために、ここまで来てくれているのだ。
それを思うと、遠いなどと言ってはいられない。

 翌日の早朝、またもや北朝鮮が北海道を跨いでミサイルを発射した。
有事の円買いは9円半ばまでだった。
それでも、昨晩10円81で作ったショート・ポジションにとっては慈雨である。

北朝鮮の軍事的挑発に少し食傷気味となった市場は(ドル売り)円買いに積極的でなくなりつつある。
9円95で買い戻すことにして、後は様子見と決め込んだ。

そんな俺の様子を窺いながら、山下が例のごとく、
「来週はどうでしょうか?」と聞いてきた。

「フィボナッチ水準の11円65*をブレイクすれば、112円前半もありえるが、それにはFOMCのドットチャート(参加者の政策金利見通し)で12月利上げ見通しの人数が多く、イエレンの強いタカ派的発言が必要になる。

ただ、このところFEDの利上げ決定や観測はドルを下支えてはきたが、押し上げてはいない。

だから、11円65ブレイクは難しい様な気がする。

逆に11円65を超えられなければ、再び8円台への反落もあると思う」

「そうですか。それじゃ、少し静かにしておきますかね」

「そうだな。もう9月期の数字もほぼ固まった。
ここからはカバー中心で行く様に、皆に伝えておいてくれ。
来週は東城さんの命令で夏休みをとることにした」

「また松本方面ですか、岬さんと会えますね。
この間の話もまだ聞いてませんから、今度まとめて聞かせて下さい」

「あまり、上司をからかうな。ニューヨークへの転勤を取り消すぞ」

「えっ、それは困りますよ」

「大丈夫だ。東城さんにも伝えてある。それじゃ、来週は頼んだぞ」

その日のニューヨークは11円33を付けたものの、8月の米小売売上高が予想を下回ったことからドルが反落し、10円85で終えた。

(つづく)

*ジェネラル・アカウント(general account):
予期せぬことで生じた利益や損失を暫定的に処理するための勘定。通常は損失が発生することが多い。呼称は銀行によって異なる。

*111円65銭: 118円66銭(16年12月15日)と9月8日の安値107円32銭の38.2%リトレースメント

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。