週初(9日)の東京市場で107円直前で寄り付いたドル円は、米中貿易摩擦やシリアを巡る米露の対立を材料に、週後半まで揉み合いが続いた。
だが、ドルの下値は先週よりも1円ほど切り上がり、安値は週前半の106円62銭で止まっている。
少しドルが上に動く兆しである。
‘1月上旬に113円台で推移していた相場が3月下旬に104円64銭まで下落したことを振り返れば、この程度のドルの戻りは当然のことだ’
相場が変化したのは、週末の金曜日のことだった。
シリア情勢を巡って米国の態度が軟化したため、日本株が堅調となり、ドル円も2月下旬以来の水準となる107円後半まで上昇したのだ。
‘ただこの先、誰が積極的にドルを買うのかが問題だ。
買うとしたら、短期のスペック(投機筋)か新年度入り直後の機関投資家か’
シリア問題の行方が見えないなか、週越えのポジションを持つにはリスクが高い状況だ。
だが、ポジションを持たないことには場が良く見えない。
思い切って、ドルを売ることにした。
「小野寺、ロンドンを読んでドル円50本(5000万ドル)売ってくれ」
「はい、60(107円60銭)です」
山下に匹敵するぐらいのレスポンスだ。
「了解。
ストップは入れなくて良い。
8円25(108円25銭)taken のコールレベルだけ頼む」
小野寺は「はい」と言いながら、
「課長はキナ臭い与件があるときに、週越えのポジションを持って怖くないんですか?」
と聞いてきた。
「怖くないと言えば嘘になるが、仮にトランプのシリアに対する姿勢が軟化しても、ドル円は精々108円台前半だ。
逆にシリア攻撃が行われた場合は、ドル円の下値は結構深いかもしれない。
そんな状況では様々な情報が飛び交い、市場はバタつく。
そんなときに作ったポジションは、持ち切るのが難しい。
だから、今売ってみただけだ。
それにまだ新年度が始まったばかりだ。
やられても取り戻せるしな」
「そうですか、僕はそんな勇気を持てませんが」
「ならば、試しにここで売ってみろ。
でないと、場の味も良く分からないだろ?」
「はい、それじゃ、勇気を出して10本売ってみます」
EBS(電子ブローキング・システム)のキーを叩き終えると、ニコッとしながらこっちを見た。
覚悟が決まった顔つきである。
そんな折、
「課長、テレビ国際の中尾さんからお電話です」
と誰かの声がした。
‘来たか’
「ディーリング用でない電話番号を教えて、そこに掛けてくれと伝えてくれ」
こっちから掛け直す必要もない相手だ。
時を待たず、デスクの上のディーリング用でない電話が鳴った。
「初めまして、仙崎です。
さっきの電話はディーリング用のなので、こちらに掛けて頂きました。
失礼致しました。
話は番組の件ですね?」
「はい、番組のキャスターを務めている中尾と申します。
番組の件でお電話させて頂きました。
お忙しいところ、突然申し訳ありません。
それで早速ですが、打ち合わせで今晩お時間を頂けませんでしょうか?」
急な話である。
「4月入りでコメンテーターを入れ替えているのですが、仙崎さんにご担当をお願いする予定の月曜日だけが決まっておりません。
今は、局の経済部の人間が担当していますが、できればゴールデンウィーク開けからでもお願いできればと存じます。
そのためには、来週中にも上に報告書を提出する必要があります。
今日の番組打ち合わせは8時からですので、その前にお時間を頂けたらと・・・」
言葉は丁寧だが、相手の言い分は関係なく、畳みかける様な口調である。
局内では誰も太刀打ちできないほどの才女らしい。
「分かりました。
それで、局にお伺いすれば、良いのですね」
「はい、そうして頂ければ、助かります。
局の入り口のセキュリティーで仙崎さんのお名前を伝えて下されば、問題ない様に手配しておきます。
今5時半ですから、6時半頃ということで宜しいでしょうか?」
「はい、それで結構です」
「それでは、お待ちしております」
6時過ぎに銀行を出たところでタクシーを拾い、
運転手に「麹町のテレビ国際へお願いします」と告げた。
タクシーは日比谷通りを南に下り、日比谷濠、桜田濠を右手に見ながら、局へと向かう。
桜の時期を終え、綺麗な新緑が濠沿いの歩道を飾る。
6時過ぎという時間帯のせいか三宅坂付近で少し渋滞に出合ったが、6時半前には局に着いた。
セキュリティー室の脇で待っていてくれた若手男子局員が10階にある経済部の応接室まで案内してくれた。
数分すると、身長160センチほどの細身の女性が現れた。
ウィキペディア調べでは43歳だが、幾分若く見える。
細面の美人だが、冷たい印象を受けるのは彼女の性格のせいなのか、局内で一線を維持するために被ったベールのせいなのかは分からない。
国際金融新聞の木村が言う様に男癖が悪い様には見えないが、先入観を持たない方が無難だ。
「初めまして、中尾佐江です」
と言いながら、名刺を差し出す仕草は腰が低い。
「仙崎です、宜しくお願い致します」
こっちも名刺を渡した。
早速、番組の申し合わせ事項についての説明を切り出してきた。
「ワールド・マーケット」という番組の趣旨や内容についての説明はない。
当然、銀行員ならこの番組を見てるという前提で話は進む。
とんでもない思い込みである。
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経済番組のコメンテーターの話には全く興味がないので、ほとんどこの番組を見たことがない。
ポジションも持ったことのない経済学者やエコノミスト連中の市場の話が役に立つはずはない。
一般経済についても、ロイターや新聞の情報があれば十分だ。
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暫しの間、番組の進行や事前の打ち合わせ事項についてのレクを受けた。
大凡の話を終えたところで、
「仙崎さんは独身ですか?」
と聞いてきた。
「ええ、そうですが・・・」
「私もですの。
でもバツイチで、子供付きですが」
何となく顔付きが普通の女性に変わっていた。
「へぇー、そうですか。
それは何かと大変ですね」
「ええ、でも母が子供の面倒を見てくれてますから、日常は全く独身と変わりませんのよ」
やたらと独身を強調してくる。
「そうは言っても、これだけの番組のキャスターを務めてらっしゃるのだから、何かと大変かと思いますが」
「‘慣れてしまえばって’とこかしら。
それより先崎さんのお仕事こそ、24時間だから大変でしょ。
さぞおモテになるでしょうに、デートも儘ならないんでしょうか?」
「そうかもしれませんね」と笑いながら言い、彼女の言葉をあしらった。
‘そろそろ潮時だな’
「申し訳ありません。
これから銀行に戻らなければならないので、そろそろ失礼します」
と言い、ソファーから立ち上がった。
「そうですか、それは気づきませんで、失礼しました。
それでは、5月7日にお待ちしていますので、宜しくお願いします」
応接室から出たときの彼女の顔は、既に仕事モードのベールを被っていた。
‘流石だな’
局を出たところでタクシーを拾うと、青山へと向かった。
ジャズ・バーの’Keith’が目的の場所だ。
人と会ったときに日時と場所を名刺に記入しておくのを習慣にしている。
車中でそれを記入しようと、彼女の名刺を取り出すと、裏面に何かが書き込まれているのが目に留まった。
そこには手書きで携帯番号、090xxxxxxxxと書かれていた。
「男癖が悪い」という彼女の片鱗を見た様な気がした。
Keith の重いドアを押し開けると、
マスターの「お久しぶり」という元気な声が飛んできた。
「本当にお久しぶりです。
今日は一人だから、カウンターで。
酒とアテはいつもの、そしてBGMはMiles の‘Round about midnight’をお願いします」
「山下さんがいなくなって、連れに困るでしょ?」
「でももう直ぐ、ジャズ好きがニューヨークから帰ってくるから、連れて来ますよ」
そう言いながら、スマホを取り出すと、メールを書き出した。
国際金融新聞の木村宛てである。
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木村様
今日、例の中尾さんに会って来ました。
噂は本当かも知れませんね。
だとすると、この先疲れそうな気がします。
それはそれとして、来週の予測をお伝えします。
あっちの友人からの話では週末に米国がシリアを叩く可能性が高いとのことです。
もしそうであれば、とりあえずは「株安→ドル円下落」でしょうか。
‘今晩にも発表されるかもしれない「米財務省の為替政策報告書」では日本が監視対象国に入るでしょうし、来週の日米首脳会談でトランプが貿易不均衡を追求してくることも間違いないと思います’、そう考えれば円高に振れる。
ですが、そんな筋書きは誰にでも描けそうなので、疑問が残るところです。
私もドルショートで構えていますが、先週と同様にチャートの顔つきからはあまりドルが下がらないのかもしれません。
与件から離れて予測すれば、揉み合い継続の様な気がします。
予測レンジ:104円50銭~108円25銭
IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了
(つづく)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。