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第40回 「左遷」

週初(5日)から週半ばまでドル円の下値を試す展開が続いたが、直近最安値の105円24銭(3月2日)を下回ることはなかった。

週後半の木曜日(8日)、米国の鉄鋼・アルミの関税措置問題では同盟国が除外される可能性が浮上する一方で、北朝鮮関連ではリスク回避の動きが弱まり、ドルに底堅さが生まれ出した。

ドルの上値は重いものの、積極的に売る気配も途絶え、朝からドル円は106円程度で模様眺めの展開が続いていた。

‘神経を尖らせる様な相場ではない’
こんな日は保存フォルダーを一挙に整理するのに適している。

20件ほどメールを読み終えたところで、
「課長、財務省の吉住さんからお電話です」の声。

「‘俺の専用電話へかけ直してくれ’と言ってくれ」
吉住は大学の同好会の後輩である。
遠慮は要らない。

「吉住です。
先日はありがとうございました」
勉強会で講師を務めたことへの礼である。

「どうした今日は?
市場は静かだが・・・」

「先輩、坂本が転勤になるそうです」

「ふーん、そうか」
しらばっくれた。

「何だか知っていた様な口ぶりですね?」

「いや、関心がないだけだ。
それで、何処へ?」

「札幌財務局だそうです。
しかも、‘主計課付き’。

つまり、決められた役職・業務がないということになります。
将来を嘱望されていると自負していた人だけに、内示が出た瞬間は大荒れだったそうです」

「主計系統なら将来の復帰もあるし、良いんじゃないのか」

「仙崎さん、それはもう、無理ですね。
銀行員も子会社・関連会社に出向した後、本店に戻るケースは少ないと聞いていますが、
それと一緒ですよ」

「そっか、まあ会う機会があったら、宜しく言っておいてくれ。
他に用事がなければ、切るぞ」

「ドルも一旦、105円台で下げ止まった様だし、特にお聞きすることもありません。
あと、局長が近いうちに一杯やりたいと言ってました」

「分かった。
連絡、ありがとな」

 

週末の金曜日(9日)、財務省内は蜂の巣をつついた様な騒ぎになった。
森友学園への国有地売却に携わった近畿財務局員の自殺、そして佐川国税庁長官の辞任とあれば、当然のことだ。

今夜10時半に米2月雇用統計の発表を控えていたが、気分が乗らない。
公文書の書き換えや忖度疑惑の真偽は分からないが、犠牲者まで出してしまったことに大きな憤りを感じる。
憤りは当然、安倍首相や麻生財務相に向くが、官僚組織のあり方にも向く。

官僚組織の中でもがき苦しんだであろう犠牲者と、9年前の自分が重なる。

当時俺を追い込んだ田村が今、自分の後ろでのうのうとテレビを見ながら‘こりゃ、麻生はもうだめだ’とか‘安倍も危ないな’とか、声高に騒いでいる。

昨年日本海上との揉め事が起きた際に彼を潰しておけば良かったのかもしれない。
こういうヤツを放って置くと、再び俺みたいな犠牲者が出る。

当時、自死という考えは微塵もなかったが、組織への不信を抱き、IBTを辞す直前までいった。

そして大事な岬をも失った。
強く握った彼女の手を離さなければ、坂本と結婚することもなかったろうに・・・。

 

東京の10時半、米雇用統計が発表された。
注目されたNFP(非農業部門雇用者数)は前月比31万人増と、事前予想の20万人増を大きく上回ったが、平均時給が伸び悩んだ。

発表前106円台で推移していたドル円は一時107円05銭まで跳ねたが、それを追いかけて買う気配はない。

顧客のディールも、すべてドル売りである。

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FEDは「物価の安定」と「雇用の最大化」というデュアルマンデートを担う。
雇用が安定的に拡大していても、賃金が伸び悩めば「物価の安定」が遠のく。

3月のFOMCでは利上げが実施されるだろうが、今年3回と見込まれている利上げ回数を増やすためには、賃金の上昇が裾野にまで広がることが前提となる。
イエレン前議長が‘緩やかな正常化’を主張してきたのはこの点が確認できなかったからだ。

だが、大幅な税制改革が法人の設備投資を煽り、そしてウォール街の狂気を過熱させてからでは、強烈な利上げが必要となる。

その場合、景気をクラッシュさせてしまう可能性がある。

‘正常化は進めるが、急がない’というイエレン流をパウエルが踏襲するのか、あるいは一歩タカ派的な政策に打って出るのか’

新生FED内部でコンセンサスを見る日は遠い。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

為替市場の現場は今日の統計結果をそこまで深読みして動いているわけではないが、日付が変わってもドルは伸び悩んだ。

インターバンクでは、山下の他に二人、コーポレートデスクでは浅沼の他に二人が残っている。

「もう今日はここまでだな。
酒でも飲みに行くか」
皆を誘う様に言う。

「はい」・「いいですね」と一斉に嬉しそうな声が上がった。

その日‘Keith’で思い思いに飲み食いしながら過ごした。

閉店時間は疾うに過ぎていたが、マスターは不快な顔を見せない。

それどころか、
「皆さん、明るくて良い人達ですね。
でも、決して大騒ぎはしない。

流石、仙崎さんの部下ってとこですか」
と笑みを浮かべながら言う。

「ありがとう。
ところで、先日話した山下の送別会の件、30名ほどだけどお願いします」

「淋しくなりますね」

「ええ、相棒というか、弟みたいなもんですからね。
僕は先に帰りますから、20~30分したら、皆を締め出してください。
本当に遅くまで済みませんでした」
クレディット・カードの伝票にサインし終えると、会話を楽しんでいる部下を横目に店を後にした。

 

社宅に着いたとき、時計は3時を回っていた。
‘東海岸は午後1時過ぎか。
志保に電話をするには丁度良い時間だな‘。

「俺だ。
この間はありがとう。
例の財務省の件は決着がついた。
折が合ったら、お父さんにも礼を言っておいてくれ」

「そう、それは良かったわね。
雑誌の方も問題なさそう。

当初のゲラは坂本とかいう人が大学の後輩である編集者に無理やり書かせたものらしいわ。
パパの秘書の話では‘インターナショナル・レディーズ’に相応しくない内容なので、編集長自身で大幅に修正したそうよ。

でも写真は使いたかったらしいけど。
別に品が悪い写真じゃないものね」

「えっ、それで?」

「大丈夫、ここで撮った写真を送り、それと差し替えてあるはずよ。
もう雑誌発売になってるはずだから、暇があったら見ておいて。

あっ、了、ごめん。
これから会議なの」
電話の後ろで 彼女を呼ぶ声が聞こえる。

 

土曜の晩、国際金融新聞の木村に電話を入れた。
森友の一件、メディアの反応を聞いておきたかった。

「仙崎さん、珍しいですね。
そちらから電話とは」

「ええ、財務省の件、どこまで行きますかね?」

「安倍一強政権を危惧する声が相当に強いので、‘麻生さん、安倍さんの順に叩く’。
そんな感じですかね。

うちも書きますよ。
相当に強く。

ところで、来週の相場はどうでしょう?」

「日経平均がどこまで下がるかじゃないでしょうか。
米朝首脳会談決定でリスクオンとか、ニューヨーク・ダウ続伸とか言ってますが、それとは無関係に日経平均は危ない様な気がします。

佐川辞任の件は海外であまり反応してませんが、こっちは深刻ですからね。
‘日経平均下落に連れてドル円も軟調’なんてヘッドラインが並ぶ様な気もしますが。

その場合は、トランプの保護貿易主義がことさらに取沙汰されて、円高の支援材料になるって感じでしょうか。
9日の日米電話会談では、トランプも対日赤字に言及しているそうですし。

予測レンジは103円20銭~108円と幅を持たせます。

また、面白い話、聞かせて下さい」

「こちらこそ。
来週も宜しくお願い致します」

 

木村と話終えた後も、大きな何かが起きる予感がしてならなかった。

頭を振りながら、テーブルの上のウィスキーボトルに手を伸ばした。
BGMにはDave Grusin のサントラ・アルバム ’The Fabulous Baker Boys’ を選んだ。

ミシェル・ファイファーとジェフ・ブリッジズが演じた大人の恋物語。
映像とトランペットの音色が絶妙に合う映画だ。

‘次、岬に会えるのはいつだろう’

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第39回 「雪夜のしじま」

土曜日(24日)の夜、山下から‘岬の行方が分からなくなった’との連絡を受けた。

失踪の原因は、夫・坂本が彼女の留守中に母親に預けた封筒だ。
封筒には例の写真が入っていたに違いない。

だが、彼女が向かった先は見当が付いている。
奈川のペンション‘野麦倶楽部’のはずだ。

 

翌日(25日、日曜日)の早朝、四ツ谷にあるトヨタレンタカーでプラドを調達し、ひたすら関越道を走った。

更埴ICで長野道に入ると、少し空腹感を覚えた。
時間は正午になりかけている。
気付けば、朝から何も口にしていなかった。

姨捨SAに立ち寄ることにした。
この辺りまで来ると、晴れた日でもこの時期の長野は流石に寒い。
車を降りると、冷たい空気が肺に沁みる。

関東甲信越では評判の高いSAだけあって、建物の内装や土産物が洗練されている。
だが、今はのんびりと土産物を見てる余裕はない。
レストランにも入らず、サンドイッチとコーヒーを調達し終えると車に戻った。

腹が満たされ、コーヒーで少し体が温まると、シートを倒し込んだ。
昨晩浴びる様に飲んだラフロイグが今頃効いて来たのか、眠気を覚えた。

‘この先の道中のことを考え、少し仮眠を取った方が良い’
アウトドア用の腕時計SUUNTOのALARMを15分後にセットし、目を瞑った。

ALARMに起こされると、直ぐに脳は覚醒した。
就寝中に海外の電話で起こされることの多い為替ディーラーは覚醒するのが速い。

時刻は12時45分、松本ICまでは30分足らずである。
本線に戻るとプラドのアクセルを踏み込んだ。

 

松本ICから右に折れると上高地・奈川方面、左に折れると松本の市街地方面である。
市街でクラフト店を営む岬の母に会っておきたかったが、遠回りになる。
ステアリングを右に切った。

500メートルほど走ると右手にシェルのガスステーションが見える。
車をステーションに入れ、寄って来た店員に‘ハイオク満タン’と告げた。
給油中、店員二人が泥雪で汚れた窓ガラスを拭いてくれている。

岬が‘野麦倶楽部’にいることに確信はあったが、念のためペンションに電話を入れてみた。

電話にはご主人が出た。
ペンションを営む夫妻は仙崎のことをよく知っている。

「仙崎です。
お久しぶりです。
お変わりないですか?」

「ああ、仙崎さん。
去年の夏は釣りにならなくて悪かったね。

この電話は預かり物の件だね?
ちゃんと預かってるから大丈夫だ」
ビンゴである。

「そうですか。
ありがとうございます」

「ところで、今は何処かね?」

「松本インターを出たところです。
保管を宜しくお願いします」

「ああ、預かり物は今家内とダイニングでお茶してるよ。
君が来ることは内緒にしておくけど、それで良いんだな」

「はい、お願いします」

「新島々を過ぎるとカーブが多く、両サイドに雪が積まれてる。
道が普段より狭いから気を付けてな」

「はい、ありがとうございます。
それじゃ、また後ほど」

窓拭きを終えた店員が電話の終わるのを待っている。
寒いのに悪いことをした。
慌てて料金を支払い終えると、車線を跨いで右へとステアリングを切った。

 

ペンションの主人が言っていた様に道の両サイドに雪が積まれている。
新島々を過ぎると、道は少しずつ上りになる。
運転に集中した。
辺りは真っ白な雪景色だが、それを楽しむ余裕はない。

国道158号線、通称野麦街道は梓湖で分岐する。
梓湖を右に折れれば上高地方面へ、左に進めば野麦峠方面へとつながる。
ペンションへは野麦方面に向かう。

ここからはトンネルが幾つかあるため、より慎重にステアリングを操作し、野麦街道を進んだ。
30分も進むと、奈川村の中心部に近づいた。

中心部の手前から迂回の新道が出来ている。
幅員も広い新道を選択し、左へとステアリングを切った。

事故が起きたのはその直後だった。
対向車が雪で滑ったのか、こっちの車線に飛び込んできたのである。

衝突を避けようとステアリングを思いきり左に切ったが、その勢いで車は積み上げられていた雪の中に突っ込んでしまった。
相手の車も、同じ側の積まれた雪の中に突っ込んでいる。

幸いなことに体は何ともなさそうだ。
車から出ると、20代と見られる若者が‘済みません’と言いながら、こっちに近づいてくる。
怒りを覚えたが、冷静に‘大丈夫か?’と相手の体を気遣った。
‘はい、大丈夫です’と言って再び詫びる。

互いの体に問題はなさそうだが、一応事故なので警察を呼んだ。

2台とも車には損傷がある様だ。
こっちのプラドは左側のフェンダーが潰れ、タイヤと干渉している。
このままだと運転は無理だ。

四ツ谷のトヨタレンタカーに電話を入れ、後処理を任せた。
相手も保険会社とJAFに電話を入れて対応している様だ。

20分程でミニパトに乗って現れた警官から事情聴取を受けることになった。
相手のせいであることに納得した警官は、車に戻って良いと言う。

車は動かせないが、ギアをパーキングに入れ、車の中でレッカー車を待った。
車中からペンションのご主人に電話を入れ、事情を説明した。

「やはりそうか。
あまり遅いので、事故にでもあったのかと心配していたところだ」

「そんな訳で、もう少しで一通りの処理は終わります。
申し訳ありませんが、迎えに来て頂けますか?」

「分かった。
そうなると、岬ちゃんに事情を言っておいた方がいいな。
無事だったことだし。
30分ほどでそっちに行く」

 

二人を乗せたフォレスターがペンションに着いたのはもう5時近かった。
午後に入り少し曇って来たせいか、辺りは結構暗くなっている。

ペンションは道路から一段下がったところの傾斜地に建てられている。
「階段滑るから、気を付けてな」とご主人が気遣う。

念のためLLBeanのブーツを履いてきたが、それでも足下が心もとない。
何とか入口まで辿り着くと、ブーツの雪を落としてからドアを押した。

目の前に女性の二人が立っている。
奥さんと岬である。

岬は「了の馬鹿、心配したわ」
と言いながら、涙を隠さなかった。

そんな岬の姿を見た奥さんが二人をダイニングの隅に誘ってくれた。
今日はスキーに来たお客さんも全員チェックアウトした後なので、客は俺と岬だけだと言い残し、キッチンに入って行った。

話を切り出したのは俺の方からだった。
「凡その話は山下から聞いた。
お母さんには居場所は分かってると伝えてある」

「ここしかないものね。
私の来る場所。
着の身着のままで店を出て、直ぐにタクシーに乗ったのはいいけど、肝心の行く先が分からなかった。
運転手さんから‘何処へ’と聞かれて、突然‘奈川’って答えてた」

「そうか、まあ無事で良かったよ」

「ごめんね。
私のせいで、事故まで起こさせてしまって。
少し横になると良いわ。

私、料理の手伝いをしてくるから。
了の部屋は‘シラカバ’だっておばさんが言ってたわ。
夕飯できたら、呼ぶからそれまで寝てて」

 

シャワーを浴び、ベッドに横になると直ぐに睡魔に襲われたらしい。

夢の中で‘お夕食よ’という岬の声を聞いた様な気がした。
目を覚ますと、再び‘お夕食よ’という声が聞こえた。
今度は現実の声である。

気だるい感じを覚えながら、やっとの思いでベッドから這い出た。
社宅から走り尽くめで運転し、最後の最後で事故に会った。
‘疲れるのも無理はないな’

階下のダイニング・ルームに行くと、三人がテーブルを囲んで待っていてくれた。
他の泊り客がいないので、皆で食事と酒を楽しむ。
楽しい時間が過ぎるのは速い。

時間は10時を回っていた。
「それじゃそろそろお開きにするか」
主人がテーブルに両手をつきながら言う。

「私、片づけ手伝ってから行く。
了、‘例のところ’で待ってて」と言って、キッチンに食器を運び出した。
まるで老夫婦の娘の様に甲斐甲斐しく働くのが微笑ましい。

 

‘例のところ’とは、階段を上がった踊り場から奥まったところにある六畳ほどの空間のことだ。
昼間の’例のところ’は窓枠が額縁となり、その中に乗鞍岳が浮き上がる。

夜になると、漆黒の闇に星空が迫る。

かつて二人でここを訪れた初秋の夜、その空間にリクライニング・チェアを並べ、いつまでも数え切れないほどの星を眺めていたのが思い出される。

暫くすると、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
「お待たせ」と言いながら、
サイドテーブルの上にワインボトルとグラスを二つ置いた。
ご夫婦の差し入れだと言う。

雪で埋もれた山あいの夜のしじまは音一つしない。
二人は時折り、グラスに口をつけながら、額縁の中の星空を無言で眺めた。
普通ならば会話も要らないシチュエーションだが、今日はなぜか静けさがたまらなく辛い。

それに耐え切れなくなり、
「封筒の中身は写真だったのか?」
と切り出した。

「ええ、それと妙な文章が」
と言いながら、チノパンの後ろのポケットから折畳んだB5サイズほどの紙を広げて寄こした。

紙片は雑誌のゲラの様である。
それには
‘阿久津志保さん、熱愛中’
のタイトルで―――美人ポートフォリオ・マネージャーとしてニューヨークで活躍する阿久津志保がエリート銀行員と・・・―――。と書かれている。
そして紙片の余白に手書きで『インターナショナル・レディーズ4月号』と書かれている。

「うーん。
なるほどね。
ここまでやるかってとこだな。
それで、岬は何を気にして店を飛び出した?」

「最初は写真に写る男性の後ろ姿が了だったってことかな。
でもそれより、写真やその紙を持って夫が母の店まで訪ねてきてことが恐かったの。
まだ、近くにいる様な気がした」

「阿久津志保は確かにニューヨーク時代の恋人で、俺に就職の相談で帰国していた。
現場の写真はIBTの人間が撮ったものだ。

それが坂本さん、つまり君のご主人に渡ったということだ。
しかし執拗だな、坂本さんも。

このままでは、延々と終わらないな。
岬とご主人の関係、そして俺と彼との関係もな。

そこまではまだしも、無関係の志保にまで・・・」

「ごめんね、了」

「まあ、岬はすべてを忘れた方が良い。
すべて、俺が決着を付ける。
少し手荒いが、構わないか?」

「ええ、私は大丈夫」

「ところで、その月刊誌、発売日はいつだ?」

「月刊誌の発売は第一週のものが多いハズだけど、その月刊誌は分からないわ」

「そうか、まあ良い。
さぁ、ワインでも飲もう」
暫くそのまま星空を見ていた。
岬は志保とのことは何も聞いてこなかった。

すると、
「後で了の部屋に行っても良い?」
と言う。

もはや断る理由は何もなかった。

 

部屋に戻ると、大き目のデイパックからスキットルを取り出し、そこに入っている液体を一飲みした。
ラフロイグである。

ついでにBose のMini Sound Linkを取り出すと、WALKMANとBluetooth接続した。
BGMにBeegie Adairのアルバム ’I’ll take Romance’を流した。

1時間ほどすると、岬が部屋にやってきた。
白のワイシャツにチノパン姿である。

‘そっか、パジャマも持たずに飛び出てきたのか’

デイパックからスウェットを引っ張りだすと、それを岬に渡した。
大分サイズオーバーだが、チノパンを脱いだ姿に似合う。
というか、やけに色っぽい。

「何か聴きたい音楽はあるか?」

「ええ、’fly me to the moon’ が良いわ」

「この部屋からは星空しか見えないけど・・・」

「でも、詩の中に’let me play among the stars‘という箇所もあるわ。
だから、今のシチュエーションよ。
できれば、Nat King Coleのね」

Poets often use many words・・・・・
Nat King Cole の甘く優しい声が流れ出した。

倒れ込む様に胸に飛び込んできた岬をしっかりと受け止めた。

 

月曜日(26日)、銀行には寄らず、社宅に直行した。
志保に電話を入れるためである。

‘あっちは午前2時だが、まぁいいか’

「珍しいわね。
了の方から電話を掛けてくるなんて。
こういう時の了の電話は頼みごとよね」
少し眠そうな声だ。

「図星だ。
早速で悪いが、本題に入らせてくれ。
時間がないんだ。

‘財務省主計局の特別税制課に所属する坂本という男を本省から外してほしい。

『インターナショナル・レディーズ4月号』に志保の記事が掲載される。
帝国ホテルでの志保のハグが原因、というよりその時に撮られた写真が悪用されそうだ。

ゲラを見たが、あまり筋の良くない記事だ。
これもボツにする様に頼んでくれ」
志保の実の父は民亊党の元幹事長である。
彼女の母は彼の妾だった。
まだ永田町では相当な力を持つ人物と聞く。

「分かったわ。
急ぐ様だから、直ぐに電話を掛けてみる。
それと、マイクは本当に良い人ね。
ここでなら、良い仕事ができそう」

「それは良かった。
それじゃ、頼んだぞ」

 

火曜日(27日)、新FRB議長パウエルの議会証言があった。
ややハト派的と見られていたパウエルの発言は予想外にタカ派的なものだった。

発言で市場はドル買いに動いたが、ドル円は107円68銭で止まった。

年初からの抵抗線や先週の高値107円90銭の手前で有象無象の売りが湧く。
当然の市場行動だ。

木曜日(29日)、トランプの「鉄鋼・アルミに対して追加関税を課す」発言が飛び出た。
世界の金融市場が大きく反応した。

株売り・ドル売りが止まらず、金曜日にドル円は直近安値の105円55銭を抜き、105円25銭へと沈んだ。

 

その晩、志保からのメールが入った。
「例の件、問題ないと思う。
母と私を見捨てた負い目があるせいか、パパは何でも私の言うこと聞いてくれるから。

特に本件は私の問題が絡むから、真剣にやると思う。
それじゃ、また」

「ありがとう」とだけ書いて、返信した。

 

土曜日(3日)の晩、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測を書いた。

木村様

揉み合いを熟してドル急落。

また予測が当ってしまいました。

ここまで来れば、来週も「ドルの下値テスト」で行きましょう。

ただ、一応経験則では節目の105円を叩けば、達成感が出る可能性があります。

予測レンジ:103円50銭~107円50銭

埋め草は適当に

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

第38回 「失踪」

週初(19日)は中国や香港などが春節、そしてアメリカがプレジデント・デーということもあって、内外共にドル円は106円台で模様眺めの展開となった。

相場が動き出したのは、翌日のロンドン時間のことである。

安倍首相が「消費増税前の駆け込みとその反動減を懸念し、経済の下振れをコントロールする必要性」を主張したことが切っ掛けとなった。

市場に財政出動期待が浮上し、それがニューヨーク市場を煽り、円売り(ドル買い)に繋がった。

先週作った105円台のドルロングも奏功し、木村に送った予測も的中している。

水曜(21日)の東京では、日経平均が上昇するのに連れてドル円も107円90銭まで上昇した。

だが、期末を控えて実需筋や機関投資家が108円を一つの節目と見出した。
年初からの抵抗線も108円辺りまで下降している。
当然の如く、彼等や投機筋ドル売りが湧いて出た。

‘やはりここは上値が重たいな’

「山下、どう思う?」

「はい、東京はもう一杯でしょうか。
あとは海外がもう一回上値を試すかどうかでしょうか?

課長のコストは悪くないので、一晩だけ待ってても良いかとは思いますが・・・」

「そうか。
今、返す刀でショートを振るってアイディアはどうだ?

まだシカゴ*の円ショート(円売り持ち)は大分残ってるな。
沖田の話じゃ、少しずつ手仕舞ってる(円を買い戻してる)様だが、彼等にも焦りがあるはずだ。

やはり、売るか。
俺は50本、シング経由で売る。
お前は50本、EBSで売ってくれ」

「81で50本、80で20本」

「了解、こっちは80で全部。
50本は5円台の利食いで処理しといてくれ。
後は放っておく。

お前も20本売ったのか?
一応、8円が抜けたらストップを入れおいた方が良いな。

もう少し頑張るなら、8円60(108円60銭)takenでも良いけど」
8円60はテクニカル上の重要ポイントだ。
当然、そのことは山下も分かっている。

「いえ、8円丁度takenで入れておきます」

「もう期末の収益はあまりブラせないから、それが良い。
そうだな、そろそろ皆にもそれを徹底しておく時期か。

山下、明朝のミーティングでそのことを皆に伝える。
俺が言い忘れたら、その時はリマインドしてくれ」

「はい」

 

週後半(22日)になると、案の定ドルの上値が重たくなり出した。

ニューヨークの沖田の話では毎日昼近くになるとコンスタントにシカゴの売りが出てくるという。

前日に公表された1月のFOMC議事録はタカ派的な内容だったが、市場はむしろ地区連銀総裁のハト派的な発言に反応しやすくなっている。

この日に飛び出たブラード・セントルイス連銀総裁の「速過ぎる利上げペースは経済成長を阻害する」という発言が週末に向けての相場を決定づけた。

今年のFOMCでは3回の利上げが市場のコンセンサスだったが、それが2回という声も出始めている。

経済政策の波及経路のことも全く分からずに「低金利政策が良い」と言い続けているトランプ、そして立場も弁えずに「ドル安はいいことだ」と言い放った財務長官ムニューシン、そんな政権下でFRB新議長に就任したパウエルもややハト派的と言われる。

‘金利相場がまだ続きそうだな’

ブラード発言で長期金利が低下し、俄かロングの投げでドル円は週末に106円台半ばへと下落した。

 

土曜日は社宅から出ずに、終日片づけに徹した。
週に一度は横浜に住む母親が掃除をしに来てくれるが、デスクや書棚の整理には手を付けない。

夜の8時過ぎ、宅配ピザが届いた。

岬の言いつけである「野菜不足に注意」を守り、キャベツ、トマト、レタスそれにキューリを適当に切って粉引の中鉢に入れた。

7寸の中鉢は粉引で人気の高いらしい花岡隆の作だという。
岬からのクリスマス・プレゼントである。
磁器ものが本来好きだが、これを見ると陶器も悪くないと思う。

野菜に塩をふり、バージン・オリーブオイルをたっぷりとかけた。
その上からパルメザン・チーズを振る。
悪くはない味だ。

冷蔵庫から母親が買っておいてくれたビールのロング缶を取り出す。
すべてをPCの置いてあるデスクへと運ぶ。

Miles Davisの ‘Kind of Blue’をBose の Music System に差し込む。
So whatが流れ出した。
少し重いが、Miles の巧みなトランペットのせいか気にはならない。

ビール、サラダ、ピザの順番を繰り返しながら、腹を満たしていく。
PCのトップ画面のヘッドラインは冬季五輪のニュースだらけだ。
‘つまらないな’と思いつつ、Outlookをクリックした。
国際金融新聞の木村に来週の相場予測を送るためである。

 

木村様

まだ僕の予測、当り続けてる様ですね。

もっとも、ここからは少し難しい局面を迎える様な気がします。
恐らくは揉み合いかと。

現状が年初からの安値圏なので、ここで上下動が激しければ、‘ドル下げ一相場’は終焉するかもしれません。

ただ、本邦輸出企業が決算を迎えるこの時期、海外からの利益・配当の還流(外貨売り・円買い)も考慮すると、需給は緩い様な気がします。

FEDの年内利上げ4~5回説まである様ですが、減税の波及効果が余程前倒しで顕在化しないと無理なので、‘為にする’エコノミストや自称ストラテジストの話に過ぎないでしょう。

それはそれとして、予測ですが、一応「ドルに下方リスクが残るなか、揉み合う展開」程度でまとめて置いて下さい。

シカゴ筋の円売り越し・手仕舞いの加速には注意しておいた方が良いかもしれません。

予測レンジ:104円50銭~108円50銭

有体な予測で申し訳ありません。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

メール出し終えたところで、スマホが鳴った。
山下からである。

「めずらしいな、土曜日のこんな時間に。
どうした?」

「了さん、少し拙いことが起きました。
家内曰く、岬君、いえ岬さんが消えてしまったと言うんです」
山下はプライベートの時間で’俺を課長’とは呼ばない。

「どういうことだ?」

「はい、岬さんのお母さんから家内に電話があり、昨日の昼過ぎにご主人が突然店に現れたということです。

お母さんが‘岬は今、金沢美術工芸大の聴講で出かけています’と伝えると、‘これを岬に渡してくれ’と言い残し、直ぐに店を出て行ったそうです。

そして岬さんが戻ってきたところで、お母さんは坂本さんが来たことを伝え、封筒を渡したそうですが、その中身を見た途端、飛び出す様に店を出てってしまい、それから戻らない。
ざっとそんな話ですが・・・」

「それはまずいな。
それで奥さんは岬に電話をしてくれたのか?」

「それがお母さんの話によると、スマホも部屋に置かれたままだそうです。
相当動揺してた様ですから」

「分かった。
今日はもうアルコールを入れてしまったので、運転はできない。
明日、レンタカーを借りて松本に行ってくる。

多分、月曜は銀行に行けないな。
デスクは任せたぞ。

東城さんに話しておいてくれ。
彼には全部話しても構わない」

「了解です。
明日、お気を付けて。
失礼します」

 

‘少し頭を冷やさなければならない’
ラフロイグをグラスに注ぐと、’A Windham Hill’の’Christmas’をMusic Systemに挿入し、[The First Noel]のトラックをrepeat 設定にした。

シーズン外れだが、頭を冷やして物事を考えたいときには最高のトラックだ。
泣ける曲だが、岬の気持ちを考えるのには良い。

ラフロイグを数杯呷ると、脳中枢が刺激された。
The first Noelのメロディーが懐かしい雪山の小屋の光景へと誘う。
もう彼女が向かうのはあそこしかない。

 

(つづく)

 

注:
*シカゴ:IMM(International Monetary Market)、シカゴにある先物市場(CME)の通貨部門。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第37回 「途絶えた連絡」

―――財務省に依頼された勉強会は無事終了した。

勉強会とは名ばかりで、実際には局長クラスを中心とした講演会的なものだった。

大学の後輩である吉住の話では、会の前日になって急遽、坂本が部屋の変更を伝えてきたという。

吉住は局長クラスが出席することも知らされてなかったとのことだ。

俺が当日になってお歴々を目の前にすれば、たじろぐとでも思っての企みだったのである。

だが、俺は慌てることもなくテーマを変更せずに事前に用意した『行動経済学と為替相場』についての話をした。

抽象的なテーマだが、内容が市場心理を追及したものだっただけに、参加者全員を話に引き込めた様である。

話の内容に納得する声が漏れ聞こえたことや閉会後の拍手が、スピーチが成功だったことを物語った。

逆にそのことは坂本を苛立たせ、そして妻のかつての恋人だった俺への嫉妬を募らせた様だった。

勉強会の後に俺を呼び止めた彼は、「これから先、何が起きるか楽しみにしておけ」と捨て台詞を残して自局のある建物へと消えて行った―――

 

週初(12日)の東京市場は建国記念日の振り替え休日で休場となった。

東京市場が休場の日は余程の事が起きないと、アジアの時間帯は静かである。

この日も同様で、ドル円は108円台後半、ユーロドルは1.22台での模様眺めの展開に終始した。

だが、翌日には再び幅広い通貨に対してドルが売られ出した。

特にドル円は黒田日銀総裁が「低金利の銀行収益への影響」に言及したことで、下方モメンタムが付いてしまった。

本邦要人から急速に進む円高に対する牽制発言も出たが、市場はそれらを無視してドル円を売り込んだ。

昨年のドル円最安値107円32銭を割り込むと、ストップロスを巻き込む格好で一挙に106円台へと突っ込んだ。

週末(16日)の東京では、午後に入り、ドル円は1年3か月ぶりの水準となる105円台半ばまで急降下した。

そんな折、東城からの電話が入った。

「どうだ?」
当然、市場のことである。

「はい、これ以上は無理だと思います。

実需筋がドルを売り始めたのは110円割れ、そして108円割れといった水準です。

ですが、7円32銭を割り込んで以降は実需ではなく、アルゴリズム系も含んだ投機筋の動きが中心かと。

何の理屈もないことですが、ドル円の5円刻みの水準では上りも下りも止まるか揉み合います。

足下の105円近辺も同じ様な展開になるのではないでしょうか。

まだドルの先安感は残っているのですが、とりあえず、ここらで少し買ってみます。

戻りが悪い様でしたら、直ぐに手放しますが」

「そうか、分かった。

ところで、まだ約束した新年会もやってなかった。
財務省の件もとりあえず終わったことだし、今日は銀座の‘下田’へでも行くか?」
下田とは銀座6丁目にある寿司処である。

「はい、そろそろかと期待していました」
電話の向こうで東城が渋い笑い顔を浮かべてるのが手に取る様に分かる。

「それじゃ、7時に予約をいれておく。
俺は出先から直行するから、現地で会おう」

「それでは、失礼します」
と言って、受話器を置いた。
久しぶりの東城との酒席である。
‘楽しみだ’

 

‘下田’の暖簾をくぐると直ぐに、
「おっ、いらっしゃい。若旦那」と言う、
威勢のいい店主の声が迎えた。

「若旦那はないでしょ、大将」

「東城さんの跡継ぎだから、若旦那で良いじゃないですか」
笑ってごまかすしかなった。

席に着くと間もなく東城が現れた。

笑い声が入口の外まで届いたのか、
「楽しそうじゃないか
どうせ俺の悪口でも言ってたんだろう」
と東城が言う。

 

「まぁ、そんなとこですか。
ところで、飲み物は何にしましょうか?」
店主が話をそらす様に言う。

「ビールの後、熱燗かな。
後はいつも通りで頼む」
下田では、特別な依頼をしない限り、店主任せだ。

運ばれてきたビールで乾杯し終えると、財務省の話を自分から切り出し、一連の話を東城に伝えた。

「そうか、それは御苦労だったな。
国金局長の竹中さんから礼の電話を貰ったが、良い内容だったらしいじゃないか。
彼も随分喜んでたよ。

それにしても坂本さんには弱ったもんだな。
彼が御主人じゃ、岬君も相当に苦労しただろう。

あの時彼女がお前の後を追っていたらと思うが、人生の悪戯ってやつに引っかかってしまった様だな。

そう考えると、俺がお前をニューヨークに行かせたことに責任を感じるよ」

「そんなことはありませんよ。
この件は僕自身の不甲斐なさから生じたことです。

坂本さんを夫に選んだのは彼女の不幸ですが、その不幸への引き鉄を引いてしまったのは僕です。
僕さえ田村さん等の罠に嵌らなければ良かったわけですから・・・」

「ところで、彼女は元気にしてるのか?」

「大分元気にはなった様な気がします。
ですが、さっきお話しした様に坂本さんが例の写真を彼女に送る可能性があります。

もしかしたらもう、送ってるかもしれません。
あれを見たら、少なからず岬も傷つくでしょうね。

2・3日に一度は必ずメールか電話があるのですが、このところ途絶えています。
僕の方から電話すればいいんでしょうが、写真の件でなんとなく探りを入れる様な気がして・・・。
拙いですよね」

「お前らしいとは言えないな。
早めに連絡をとってあげた方が良い。
市場にいる時の仙崎了らしくな。

それはそうと、下期も目標以上の成果を上げている。
市場以外の問題も多くて大変だったが、良く頑張ってくれた。
感謝するよ」
と言いながら、空いた盃に熱燗を注いでくれた。

「残り一カ月半で何も起きなければ、良い結果を残せそうです」
今度は東城の盃に注ぎ返した。

旨い寿司で、旨い酒を飲んだ後、二人は店を出た処で別れた。

「それじゃ」
と言い残すと、後ろ手を振りながら東城は7丁目方向へと歩き出した。

何処へ向かうのかも問わず、
「ご馳走様でした」と応えて、自分は晴海通り方向へと向かった。
目的はカウンター・バーの‘やま河’である。

 

‘やま河は’すずらん通りを晴海通り方向に向かって5丁目の真ん中近辺にある。
バーは地下一階にあるため、目立たない。
そのためか、カウンターが一杯になるのを見たことはないが、ママは‘あまり混まない方が良いのよ’と言う。

少し重いドアを押し開けると、
ママの声が聞こえてきた。
「いらっしゃい。
今日は山下さん、一緒じゃないの?」

「ええ、上司に誘われて、今そこで別れたところです。
いつものヤツを頼みます」

ラフロイグを注いだクラスとドライド・フィグ(イチジク)をカウンターに置きながら、
「少しお疲れの様ね」
と言う。

「そう見えますか?」
市場から離れ、アルコールが入ると岬のことが気になる。
それが顔に出るのかも。
‘拙いな’

一気にグラスを空けると、次のグラスを頼んだ。
心配する様にママは見つめるが何も言わない。
それが今は嬉しい。

Keithの’Melody at Night, with you’が静かに流れ、少しずつ心に潤いを帯びてくる。
そんな心の中を見透かすように
「仙崎さんは本当にKeith Jarrettがお好きなのね」
と微笑みながら言う。

「ええ、ジャズ・ミュージシャンの中では3本の指に入るかもしれません。
ママも何かお好きなものをどうぞ」
とアルコールを誘う。

 

土曜日の晩、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測をメールした。

木村様

とりあえず、ドルが戻すかと思います。

‘三陰線連続の叩き’は買いのサインとも言いますしね。

当り続けてきた予測も外し頃なので、もっと落ちるかも知れませんが・・・。

埋め草は適当に!

予測レンジ:105円~108円75銭

 

すかさず、木村からの返信があった。

仙崎様

毎週、予測をお送り頂きありがとうございます。

毎週当り過ぎですね。

ウェブ刊では仙崎さんのドル円相場予測のヒット数がダントツです。

今後共、宜しくお願い致します。

国際金融新聞 木村

 

(つづく)

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第36回 「対峙」

日曜(4日)の晩、岬に電話を入れた。

水曜日に予定されている財務省の勉強会では、彼女の夫である坂本と会うことになる。
単に講師を務めるつもりで出向くが、彼の方から何かを仕掛けてくる可能性がある。

そのとき、自分がどの様な行動に出て良いのか分からない。
岬とのことを巡って、勉強会後に対決する可能性もある。

そのことが切っ掛けで岬を傷つけてしまうことになるのかもしれない。
逆に逸早く彼女を夫から逃れさせてやれるのかもしれない。

だが、問題は岬が何を望んでいるのかだ。

その点を彼女に確認しておかなければならない。

 

「こんばんは。
そっちもこの冬は寒くて大変そうね?」

「ニューヨークほどではないけど、まあ寒いことは寒いな。
そっちこそ大変なんだろ?」

「そうね。
でも例年より多少雪が多いって程度かな。
大丈夫よ。

それより、確か今度の水曜日だったわよね。
例の講師の件」

「ああ、そのことで少し岬に確認をしておきたいんだ。
これまでの坂本さんの挑戦的な言動を考えると、当日何か俺に言ってくるはずだ。
勉強会中であれば質問で論破しようとするだろうし、その後であれば君との関係で絡んでくるかもしれない。

何としても俺を打ち負かすつもりで臨んでくると思う。

それはそれで受けて立つしかないが、心配なのはそこでのやりとりが一線を越えたときだ。

それが何かは分からないが、何が起きても岬は動じないか?」

「ええ、大丈夫よ。
了の気の済む様にして構わないわ」

「そうか、分かった。その話は止めにしよう。

ところで、昨年から受講すると言っていた金沢美術工芸大の聴講*へは行ってるのか?」

「ええ週に一度、松本美術館で講師の先生がいらっしゃるときに出席してるの。
作陶自体には興味はないけれど、陶磁器に関わる様々なことや歴史を学べて楽しいわ」

「それは良かった。
きっと、ハンサムな先生なんだろうな?」

「あら了、妬いているの?
先生は女性よ」
少し笑ながら言う。
急に岬が愛おしくなり、余計な一言を言いそうになったが頭を振って堪えた。

「妬いているわけじゃないけど、まあ、何となくな。
じゃ、切るぞ」
若干の照れもあって、そう言うしかなかった。

「おやすみなさい」
という岬の声を聞きながら電話を切った。

 

週初(5日)からドル円の上値が重たい。

日米株価の大幅値下げに反応しやすい展開となり、翌日には108円46銭まで下落した。

財務省の勉強会当日(7日)は、日本株が値を戻したこともあってドル円は109円台で比較的静かな展開となった。

場が荒れていないだけ、気が楽である。

勉強会の開始時間は3時だ。
40分ほどの余裕をみて、銀行を出た。

日比谷通りでタクシーを拾うと、
「財務省の正面玄関前へお願いします」と運転手に告げた。

夕方前ということもあり、10分もかからずに財務省の正面玄関前に着いた。

歩道と正面玄関を結ぶ通路の両サイドには衝立がある。
歩道と衝立が交差するところにセキュリティーの人間が二名立っている。

そのうちの一人に‘省内の勉強会の講師を務めるIBTの仙崎です’と告げると、アポ・シートをチェックし、‘どうぞ’と言う。
アポのない場合は南側の通用口に回されるが、今日はその必要はない。

正面玄関を通り抜けると中庭があり、その向こうの建物の二階に国際金融局がある。

正面玄関を抜けたところで、向こうの建物の入り口で吉住が手を振っているのが見えた。
車中から予め電話を入れてあったので、建物の入り口で待っていたのだろう。

「今日はお忙しいところありがとうございます。
また今回の講師役の依頼については何かとご無理を言って申し訳ありませんでした」

「なかなか殊勝なことを言うじゃないか」
笑いながら言う。
吉住は大学の同好会の後輩なので気を遣う必要はない。

「まぁ、一応役所内ですから」と言いながら、応接室に案内してくれた。
まだ時間があるのでここで待っててくれと言う。

数分後に外国為替市場課長の山上が現れた。
既に面識のある山下は気楽に市場の話をしてくる。
勉強会までの時間を過ごすことには気が紛れて良い。

その間に坂本が挨拶に来ると思ったが、姿を現さなかった。
勉強会の幹事役でもある彼が顔も出さないというのは不自然であり、失礼な話だ。

勉強会は南XX会議室で行われるという。
20名程度が楕円のテーブルに着くことができる会議室だが、通常は重要な委員会や会議に使われる部屋である。
単なる勉強会の部屋としては相応しくない。

3時近くになり、吉住が‘全員会議室に集まったので、そろそろお願いします’と迎えに来た。

会議室に近づくと、入口に170センチほどの男がこっちを向いて立っているのが目に入った。
少し険しい眼差しの神経質そうな男である。
坂本に違いない。

二人の距離が縮まったところで、男が挨拶した。
「坂本です。
いつぞやは電話で失礼しました。
本日はお忙しいところ、お越しいただきありがとうございます」

「仙崎です。
今日は講師役を賜わり光栄です」
光栄などとは微塵も思っていない。
ただ、迷惑なだけである。

「ことらへどうぞ」
という坂本の言葉に従って楕円テーブルの上座の方へと向かった。

 

幹事役の坂本が通り一遍の紹介を行い始めた。

こうした場合の紹介はスピーカーの経歴に加えて多少の色を添えるのが普通だが、彼の言葉に一切そうしたものが含まれていない。

‘民間銀行の一為替ディーラー如きに決して媚は売らない’という財務官僚の意地、あるいは自分の妻のかつての恋人への敵愾心の現れかもしれない。

紹介される最中、場を見渡すと、国際金融局長の竹中が楕円テーブルの右側に座っているのが目に入った。

楕円テーブルに座っている連中は竹中とほぼ同年齢の人間である。
つまり、他の局長、あるいは同等レベルの人間ということだ。

その連中を取り囲む様に、両サイドと後ろの壁を背にして中堅・若手官僚がノートを手にして立っている。

これは単なる勉強会ではない。
これだけの人数、メンバーがそれを物語っている。
南XX号室が今日の場所に選ばれた訳が分かった。

どちらにしても、話す内容は同じである。
気に止める必要はない。

坂本のどうでもいい紹介が終わると、右サイドの席から声がした。
竹中である。

「今日は、ここに出席している皆も知っている通り、世界でも有数の為替ディーラーであるIBTの仙崎了さんに御出で頂いた。

日頃、仙崎さんは外国為替市場を主戦場として活躍しているが、なかなかの学識者でもある。

つまり、知見に長けている人物ということだ。

皆もしっかりとお話しを拝聴する様に。

それでは仙崎さん、宜しくお願いします」

竹中の一言が終わると同時に部屋中に拍手が響き渡った。

突然の竹中の言葉に虚を突かれたかの様に坂本は唖然としている。

竹中の方に目をやると、礼を言う様に軽く会釈をした。

拍手が小さくなった頃合いを見計らって
「それでは、始めさせて頂きます」
と、淡々とした口調で話し始めた。

配布資料には『行動経済学と為替相場』というテーマと、幾つかの要点しか書かなかった。

聴き手を話に集中させるためのテクニックだ。
逆に言えば、話の内容と話術が問われることになる。

‘市場への参加者を、実需筋、投機筋、機関投資家に分類し、その上で短期・中期・長期に分けて其々の心理を分析する’というのが話の筋立てである。

この点を冒頭で触れ、淡々と話を進めた。

途中、分かり易い様にカーネマンの‘Thinking, Fast & Slow’の例を採り上げるなどしながら、徐々にリアルな為替市場に聴き手を引き込んでいった。

時折り‘なるほど’と言う様な聴き手の頷きが漏れてきた。
話が上手く進行している証拠である。

パワーポイントなどを使わなくても、話し方次第でスピーチに説得力を持たせることができるのだ。

コロンビア大MBA時代に心を打った講義にはそうしたものが多かった。

持ち時間の1時間半はあっと言う間に過ぎてしまった。
勉強会は2時間で、残りの30分は質問に当てられる予定である。

局長クラスや中堅クラスの数名から質問を受けたが、足下の米長期金利、内外の株式暴落、ドル円の先行きなどに関するものばかりで、有体に答えておいた。

概ね30分が経過したところで、坂本が質問を浴びせてきた。

「それでは、最後に私の方から一つだけ質問させてください。
先程、竹中局長から仙崎さんはなかなかの学識者という紹介がありました。

そこでお尋ねしますが、近年のアメリカ経済と金融政策について、経済学的見地から懸念されている点を教えて頂けませんか?」

「そうですね。

私が懸念している点は、低インフレと低失業率の併存への疑問、つまり、フィリップス曲線*への疑問でしょうか。

‘物価が突然上昇した場合、短期間で大幅な利上げが必要になる。
当然、それは経済・金融情勢にとって悪影響をもたらす’

これは 先日任期を終えたイエレンが昨年に再三言っていた言葉ですが、恐らく彼女は‘生産や実勢の雇用が完全雇用水準をオーバーシュートすることを懸念していたものと思われます。

もっとも、この点は線形経済学の観点からは上手く説明できないため、FED内での感触は良くない主張だったのかもしれません。

これ以上は時間を必要とする議論になるので、この辺で宜しいでしょうか?」

そこで再び一斉に拍手が起こった。

あまりの拍手の大きさに坂本も質問を続けられなくなくなった様である。

坂本は有体に「もう一度、仙崎さんに拍手を!」と言って、会を終えた。

 

会議室を出たところで、出席者のほとんどが仙崎に礼を言う様にして見送ってくれた。

吉住と山上がお茶でもと誘ってくれたが、まだ仕事があるのでと断り、その場を辞した。

階段で一階まで下り、中庭に出たところで後ろから呼び止められた。
坂本である。

「今日はありがとうございました。
なかなか面白かったですよ。
また機会があれば、宜しくお願いします。

ところで、先日田村さんから妙な写真が送られてきました。
あなたも結構なやり手ですね」
スマホに触ると、帝国ホテルでハグする男女二人の写真を見せて寄こした。

「この写真が私と何の関係が?」

「後ろ姿とは言え、この男性はあなたにしか見えませんが。
それに写真の女性はあの有名な阿久津志保ですよね。
これを妻が見たら、どう思うでしょうか?」

「いい加減にしませんか。
あなたの奥さんと私はかつての恋人同士という間柄だった。
だが、今はもう何の関係ない。
いつまでも下らない探偵ごっこをやってないで、早く彼女と別れてあげたらどうですか」

「仙崎さん、どうしてあなたが私と妻がそういう状態にあるということを知ってるんですか?
‘何も関係がない’と言ってるあなたが、離婚云々に触れている、不思議ですね」

「部下の連れ合いがあなたの奥さんとIBTの同期で親友だ。
その位のことは耳に入ってくる」

「なるほど、ああ言えば、こう言う。
流石に切り返しに慣れている一流ディーラーってわけか」

「坂本さん、本当は何を言いたい。
これは俺の想像に過ぎないが、あなたの奥さんはあなたを嫌っている。

でもあなたが奥さんを愛してるのなら、もう一度向き合ってみたらどうだ。
それでも奥さんがあなたの元に戻らないのなら、この先お互いに時間を浪費するだけだ。

日本で一番頭の良い大学とされている東大卒のあなたなら、そんな簡単な理屈が分からないハズはない」

「結構な理屈を言うじゃないか。
まぁ、これから先、何が起きるか楽しみにしておけばいい。

それから有名人の志保さん、本当に美人だな。
仙崎さん、あんたが羨ましいよ」

「坂本さん、これだけは言っておく。
写真はあなたの奥さんに見せない方が良い。

それと阿久津志保のことを、今後一切持ち出すな。
さもないと、あんたは霞が関に居られなくなる。
嘘じゃない」

「へぇー、お手並み拝見と行くか」
捨て台詞を残しながら、建物の中に消えて行った。

東大法学部卒、財務官僚、世間からは絵に描いた様な成功人生を送ってる様に見られているのだろうが、俺にはそうは見えない。

正面玄関を出たところで、改めて財務省の建物を振り返ったが何故かくすんで見えた。
ここが日本の財政政策と為替政策の要か・・・。

 

週後半になって再びドルの上値が重たくなり、ドル円は週末に直近最安値の108円28銭を抜き、108円丁度まで下落した。

 

土曜日の晩、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測を書いてメールした。

木村様

依然としてドルの下値を模索する展開を予測します。

焦点は、

1.下値圏では直近安値108.00円を抜くかどうか。

抜く様であれば、昨年最安値の107円32銭を試す可能性も。

2.上値圏では、109円75銭。

抜く様であれば、110円48銭を試す展開も。

予測レンジ:106円50銭~110円50銭。

 

特別なコメントはありません。

今週は少し疲れました。

埋め草は適当にお願いします。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 

(つづく)

 


*金沢美術工芸大の聴講:本文で述べられている様な同大学の聴講制度は実在しない。

*フィリプス曲線:失業率が低いほど、インフレ率が高く、失業率が高いほど、インフレ率が低いという‘両者のトレードオフの関係’を示したグラフ。
現代版のフィリップス曲線では、Y軸にインフレ率、X軸に失業率をとる。

 

今回でシーズンⅡも終わり、次回からシーズンⅢに入ります。

‘米金利や内外株価に翻弄される為替市場、岬を悩ませ続ける坂本の存在、次々と仙崎に問題が降りかかる。

果たして仙崎は期末を上手く乗り切ることができるのだろうか’

読みどころ満載のシーズンⅢにご期待ください。

 

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第35回 「噂」

大きな節目を割り込むと、有象無象の売りが出る。

節目の110円を割り込んだ先週のドル円相場、ドルロングの投げ、輸出筋のドル売り、そしてこれらの動きに乗じた投機筋のドル売りなどが堰を切った様に流れ出た。

だが、こうした相場は必ずオーバーシュートする。

巡航速度で下落している相場はごく短期間の調整を経てから再び安値を更新するが、今週はその流れが一旦途絶えるに違いない。

そんな考えから、国際金融新聞の木村に送った先週末のメールでは「今週はドル売りを手控える」と伝えた。

週前半(5日~6日)、市場は先週の流れを受け継ぐ格好でドルの下値を試したが、直近最安値の108円28銭を抜くことは出来なかった。

週半ばになってもドルの戻りは悪かったが、下げ渋った。
その日の東京の夕方に108円60銭を付けたものの、ドルは底堅さを増すばかりである。

‘一旦ガス抜きをしないと落ちない’
スクリーンのプライス・アクションがそう囁いている。

「少しビッドアップしてきた様だ。
買ってみるか」
と呟く。

山下にその声が届かなかった様で、
「課長、何か言いましたか?」
と尋ねてきた。

「ああ、‘買ってみようか’と言ったけど。
声が小さくて悪かった」

先刻から部長席で資金課長の大河内と田村が楽しそうに話しているのに気を取られていたせいで、
山下への言葉が知らぬ間に小さくなっていた様である。

部長席は俺の座席から後方6・7メートルのところにあり、ほとんど会話の内容は分からないが、その中に‘阿久津志保や女性誌の名前’が途切れ途切れに聞こえたのが気になっていた。

気の良い山下はそんな事情も知らずに、
「いいえ、自分の集中力が足りないせいです。
50本の買いで良いですか?」
と、恐縮しながら言う。

「ああ」

「67で20本、68で30本」

「了解」

ディールの処理を終えた山下が
「課長、何か気になることでも?」
と心配そうに聞いてきた。

「ああ、後ろの会話が少し」
自分の胸の前で右手の親指を部長席の方に向けて見せる。

「どうせいつものご注進話でしょうが、あいつら本当に呑気なもんですね。
こっちがいつも収益に追われて奮闘してるのに」

「まあ、そうぼやくな。
お前だって奮闘するのが好きでこっちの世界にいるんだ」

「それもそうですね」
と言いながら、スクリーンに目をやりながらEBS(電子ブローキング・システム)のキーを叩き出した。

何かジョビングの手掛かりを得たらしい。

暫くすると、ディーリング用ではない方の電話が鳴った。
バックオフィスを仕切る山根からである。

「仙崎君、今市場は大丈夫?」

「ええ、静かですが。
何でしょうか?」

「電話では少し話しづらいので、
上で良い?」
上とは社食のことである。

「はい、それじゃ今行きます」
と言って電話を切った。

「山下悪いが、少し山根さんが事務処理の件で話があるそうだ。
上にいってくる」

「了解です」

社食に着くと、直ぐに山根の姿が目に入った。
窓際に立ち、眼下の日比谷通りを眺めている。

「山根さん、ヘッドライトの流れでも見てるんですか?」

「あっ、仙崎君。

ええ、昼間は皇居の森が綺麗で、夜は日比谷通りが綺麗。
これだけでも、IBTに勤めてる価値ありってとこかしら」

「そうですね・・・。
ところで、電話で話づらいことって何です?
結婚でも決まったんですか?」
半ば茶化して聞いてみた。

「馬鹿ね。
もうこの歳になって、それはないわよ」

「へぇー、そうなんですか。
まだイケルと思いますが」

「おばちゃんをからかわないでよ」
と言いつつも、少し嬉しそうな顔を見せる。

眼鏡を外せば、なかなかの美人だと思うが、
今までそれに触れたことはない。

「それで、話って?」

「‘大河内が仙崎君のことで変な噂を流してる’そうよ。

‘最近、女性誌や経済誌を賑わしてる’阿久津志保と君が帝国ホテルで会ってたのを彼が目撃したというのがその噂。

どうなの?」

「それは本当のことですが、他には?」

‘嘘を言っても仕方がない’

「うちの若い子がスマホの写真を見せられたらしい。

二人のハグの瞬間で彼女の顔は確認できるけど、君らしい人物は後ろ姿ではっきりしない
みたいね。

そっか、会ったのは事実か。

それが事実だとしたら、行内に悲しい思いをする女の子達がいるわね」

「ちょっと待って下さいよ。

僕が彼女と帝国ホテルで会っていたのは事実だけど、付き合ってるなんて言ってませんからね」

それ以外のことは言う必要もないし、伏せておいた。

「そっか。

でもどうせ田村の手下みたいな男だから、話に尾鰭が付いてると思う。

まぁ、二人がどういう関係かは知らないけど、気を付けてよ。

うちのホープがスキャンダルで潰れるなんてゴメンだからね」

「大丈夫ですよ。

それに彼女はもう、表舞台に立つことは当分の間ありませんから」と言い切った。

言う必要のないことだが、志保がコネティカットのファンドに移籍し地味な仕事に就くということも明かした。

マイクには当分、志保をバックオフィスの仕事に就かせる様に言ってある。

納得した山根は、
「そっか、‘人の噂も何とやら’。
頑張ってよ」
と激励の言葉を残してオフィスに戻って行った。

‘これで、先刻の部長席の会話の中身が解けたってことか。
どうせこの話は既に田村から坂本に伝わってる’

デスクに戻ると山下がまだ頑張っていた。

「どうだ?」

「やはりビッドですね。
先程の買いの処理はどうしますか?」

「週内には10円を抜けると思うが、長続きはしないはずだ。
お前なら何処で利食う?」

「10円25(110円25銭)辺りでしょうか」

「それじゃそこで売り50本、週末まで回しておいてくれ」

「まだやるのか?」

「はい、もう少しだけ」

「悪いけど、俺は先に帰るぞ。
もう3末(3月末)の見通しも立ったことだし、お前も早く帰れよ」

日比谷通りでタクシーを拾うと、青山の’Kieth’に向かった。

まだ時間の早いせいか、店内には自分以外に客はいなかった。

「マスター、いつもの酒と何か食事を頼む。
少し腹が減った」

「パスタだったら、直ぐにペペロンチーノが出来ますが?」

「ああ、それで良い。
それにサラダも適当に。

あとBGMはKiethの‘Staircase’を」

目を閉じながら財務省の勉強会のことを考えていた。
テーマは何でも良いと言うが、週末に纏めておく必要がある。

為替相場の見通しはそこらに幾らでも転がってる。
『行動経済学と為替相場』で行くか・・・。

暫くして目を開けると、ラフロイグのボトルが置かれていた。

マスターの方に目をやると、
「今日は相当に飲みそうなので、ボトルごと置いておきます」
とでも言いたそうな笑みを浮かべている。

こっちも笑って返すしかなかった。

ドル円相場は週末に110円47銭を付けたが、それ以上は伸び切れなかった。

週末の土曜日、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場の予測をメールした。

木村様

少しドルが買われても伸び切れないと思います。

とすれば、後に反落でしょうか。

予測レンジ:107円50銭~111円50銭

与件は沢山あるので、行間の埋め草は適当にどうぞ。

P.S. 米10年債の利回りが前回FOMCの中立金利(FEDの利上げの落としどころ:2.75%)まで到達しています。

FEDが正常化路線を急ぐのかどうかが注目されます。

仮にややハト派的なカシュカリ(ミネアポリス連銀総裁、来週に講演予定)がFFレートの経路の変更を示唆する様な発言をすれば、ドルショートが踏まれる可能性もありでしょうか。

ただ、米株が大きな調整を迎えそうな局面では、前向きなドル買いが出るとも思えません。

また2月中旬の米国債償還と利払いに合わせて、本邦機関投資家のレパトリも考慮しておきたいところです。

3月末を控えての実需のドル売りも恒例行事です。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第34回 「110円を割れたドル」

 ―――週初(22日)の東京は110円台後半で、比較的穏やかな相場付きだった。

まだドルは下がると思うが、売り時が分からない。

そんな思いで窓際に立ち、皇居の森を眺めていると、下期の出来事や業務のことが脳裏に浮かんできた―――

下期入りした10月以降、ディーリング以外の出来事に時間と労力を割かれたことで、思う様に収益を重ねることができなかった。

そんななかでも、11月初旬に作った114円台の50本(5000万ドル)のドルショートが根っこのポジションとなり、何とか収益を支えている。

毎日値洗いされているものの、ドル円の金利差*は僅かだから、現在の持ち値も大きな影響を受けてない。

本数は50本と金額は少ないが、下期の拠り処となってきたポジションである。

 プロップ・トレーダーとして収益を残すためには根っこのポジションは重要だ。

基調としてのトレンドを捉えるのは難しいが、方向を見定めてポジションを持つ必要がある。

時にポジション・メイキングの水準を間違えれば、ストップロスを入れ、そして再び根っこのポジションを作る。

根っこと決めたポジションを滅多に切ることはないが、潔さを欠くと後々のディールに響くことを常に頭に入れ、不屈の精神で次に望む。

こうしたプロップ・トレーダーとしての信念を持ち、俺はここまで生き延びてきた。

もっとも、インターバンク・ディーラー時代は根っこのポジションを持つことは難しかった。

インターバンク・ディーラーは常に顧客のカバーに追われているため、根っこのポジションを作るタイミングを見失うことが多いからだ。

時折りインターバンクのチーフディーラーである山下には「お前のディール・スパンは短いな」と言って冷やかすが、それは彼の力量や度量の問題ではない。

彼のディール・スパンが短いのはそうしたインターバンク・ディーラーとしての役割故である。

「お前の利食いは早いな」と俺に言われても、彼は‘利食い千人力ですから’などと言って受け流すが、自分の業務をわきまえている証拠だ。

もっとも、大銀行の外国為替課長である俺のプロップのポジションの取り方も難しい。

インターバンク全体のポジションを管理する立場では、自分本位のポジションばかりをとっていられないからだ。

かつて山下が、
「課長、朝のミーティングではドルは下だと言っていたのに、何故ロングしてるんですか?」
と尋ねてきたことがあった。

「お前等全員がドルを売ってるのに、俺も売ったらデスク全体が総ヤラレになるかもしれない。

俺だってショートにしたいとこだが、ここは仕方がない。

まぁ、立場上、当然のことをしているだけだけどな。

そしてこれは、俺がまだジュニアだった頃に東城さんもやっていたことだ」

次の担い手である山下を鼓舞するつもりでそう答えた。

 翌日(23日)もドル円の上値は重たそうだった。

「山下、昨日のニューヨークのドル円高値は18(111円18銭)だったな。
つまり、前日の高値22(111円22銭)を抜けなかったってことだから、そろそろ売っておく方が良いな」

「そうですね。
私もそう思います」

「昨日の安値が56(110円56銭)だから、そこを抜けたら売るか。
50givenなら間違いなくドルは下がる。
50givenで50本、丁度(110円)givenで50本、リーヴしてくれ」

「了解です。
僕も50givenで乗っかります」
勢いよく山下が言う。

その後二人はディーリングルームに残ることにしたものの、ドルは下げ渋った。

ドルが下がり出したのは東京の午後8時を回ってからのことである。

それを見届けた二人は、銀座の‘やま河’へと向かった。

‘やま河’は元外資系銀行の人事部長だった山河里美が営むカウンター・バーである。

 「課長、上手く行くと良いですね」

「ああ、大丈夫だ。
間違いなくドルは落ちる。

まあ、飲もう。
お前は相変わらず、グレンリヴェットか」

「課長は、ラフロイグですね」

店内には、耳障りにならない程度の音量でBill Evans のPeace Pieceが流れる。

テイスティンググラスを傾けながら山下が
「至福の時ですね」
と気どって言う。

「体形に似合わず、お前も随分と気の利いたことを言う様になったな。
もういっぱしのニューヨーカー気取りってとこか」

「‘体形に似合わず’ってのは余分じゃないですか。
これでも最近3キロも痩せたんですから」

ママの里美がこっちを見ながらカウンター越しに少し控えめな声で笑っている。
‘笑顔の美しい女性は良いものだ’

俺以外に客のいなかったとき、彼女の方から‘10歳年上の妻子持ちの彼氏がいる’と聞いたことがある。
‘世の中、上手く行かないものだ’

 翌日以降、ドル円相場は急落し、週末には108円28銭まで下落した。

米国のセーフガード発動、ムニューシン米財務長官のドル安容認発言、そして黒田総裁のややタカ派的発言がドル安の背中を押したのだ。

今週売った100本は、9円60銭と8円50銭で手仕舞った。
そしてまだ、114円台のショート50本は残っている。

 土曜日の晩、例によって国際金融新聞の木村に来週のドル円相場予測のメールを送った。

木村様

 今週のドル安、少し速過ぎる感があります。

ムニューシン財務長官の発言はいささか唐突ですね。
経常赤字国・対外債務国の米国財務長官としては軽々過ぎる発言かと。

いずれにしても米国が経常赤字を外国の資本流入で補填している国である以上、ドル安容認はありえない話なので、発言は真意ではないのでしょう。

黒田さんの発言は、正常化プロセスでFEDやECBに遅れをとっているためのその場凌ぎの発言としか受け取れません。

問題はムニューシン発言、あるいは米国要人が今後もドル安容認を繰り返してきたときでしょうか。

ドルに下降モメンタムがついているときだけに、その点には注意が必要です。

来週のドル円予測レンジ:107円~111円

追記:
オシレーター系のチャートを見ても少しオーバーソールドで、短期的にドルが戻す様な気がします。

ただ、ドルの下値が固まっていないのでこの先まだドルが落ちると見ています。
IMMの投機的円売りポジションの縮小が遅れているのも気に懸るところです。

今週は少しドル売りを手控えます・・・。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了

(つづく)


*ドル円金利差:過去からドル円金利はドル金利>円金利である。
この状態ではドルの先物はディスカウントとなり、先物レートは金利差(直先スプレッド)分だけ低くなる。
つまり、ドルショートのコストはロールオーバー(先送り)すればするほど悪くなり、
逆にドルロングのコストは低くなる(良くなる)ことになる。

第33回 「崩れたドル」

前の週から急速に悪化したドルの地合いは今週になっても回復しなかった。

週初(15日)に日銀が公表した‘さくらレポート(地域経済報告)’で三地域が景気判断を引き上げたことで、「日銀が2018年の経済見通しで強気を報告をする」との観測が円高の背中を押した。

テーパリングではFEDに周回遅れとなっている黒田日銀には焦りがある。
それだけに、市場は日銀サイドからの正常化プロセスに向けての示唆を気にしているのだ。

そんな中、市場がややドル円売りに前掛かりなのが気にかかる。

水曜日(17日)の東京は、早朝からドル売り一色の状態である。
前日のニューヨークで「ECBが金融政策の正常化を進める(ユーロ買い・ドル売り材料)」との観測が強まり、それが東京にも伝播したのだ。

早朝から顧客のフローも結構多い。

110円台前半で揉み合うなか、大手生保の一社が100本売ってきた。

「あっ!」
山下が声を上げる。
彼が滑ったときに挙げる声である。

彼のサポートに入った二人のジュニアも
同じ様な声を発した。

「何本滑った?」
少し大きめの声で聞いた。

「全部で70本です」
山下が返す。

「プライスは42(110円42銭)。
今、30given(30銭で売り)アラウンドか。
山下、ここは焦らなくていい、そのまま放っておけ!
ここからはもうドルは落ちない。直ぐにコストよりも上でカバーできる」

月曜・火曜と、110円台前半でドルを売って攻め切れなかった。
それに心理的節目の110円、そしてフィボナッチ水準*の110円15銭がドルのサポートとして効いている。

「了解です。
少し様子を見ます」
そう言われて、山下は少し落ち着きを取り戻した様である。

25がgivenしたところで、ドルを買う決意をした。
「山下はこっちで50本、
野口はシング(シンガポール)で50本、買ってくれ」
これで少しショートカットを誘える。

一旦、19(110円19銭)を付けたが、それから相場は反転し始めた。
ショートの踏み上げである。
昼には70(110円70銭)までドルが値を戻していた。

そんな状況を見て、
「山下、さっきのお前の70本、売り時だな。
もう、良い頃だ。
始末しておけ。

俺は東城さんに呼ばれてる。

部屋に行ってくるので、さっきの買い100本の利食いオーダーを入れておいてくれ。
80(110円80銭)で50本、25(111円25銭)で50本。
付かなければ、海外回しで良い。

今週はもう110円割れはないから、ストップは不要だ」

「了解です。
70本の滑り、お蔭様で助かりました。
ありがとうございます」
礼を言う声に張りが戻り、顔も嬉しそうである。

 「仙崎です。
宜しいでしょうか?」

「おう、入れ」
相変わらずの渋い声が迎え入れた。

「失礼します」

「大分ドルが売られてる様だが?」
ソファーに座ると、普段通り相場の話で会話が始まった。

「そうですね。
でも、ここは一息入る水準かと・・・」

「この先は?」

「今週は戻して11円台前半でしょうか。
まだ下の決着は付いてない感じがします」

「そうか、分かった。
ところで、例の堂島の件、大阪支店長の徳田さんから‘当面は忘れくれて良い’と言ってきた」

「どういうことですか?」
少し怪訝そうに聞いた。

「詳しいことは言わなかったが、恐らくこのところのドル安で含み損が減ってきたことが背景にあるのは事実だ」

「そこで三山製作所の方が勝手なことを言ってきた、ということでしょうか?
でも、この時点で決着を付けておかないと、拙いのでは。

3末(3月期末)までに再びドル高に振れれば、また彼等は難癖をつけてくるはずです。
ここで一気に整理しておいた方が良くはないでしょうか?」

「俺もそう思う。

だが、ここは徳田さんの意向もある様な気がする。
堂島での揉め事が露見すると、徳田さんの汚点になる。

大阪支店長は常務の中でもほぼトップに並ぶ位置付だ。
次は本店の筆頭常務、場合によっては専務のイスもある。

だから、次の人事が決まるまでの向こう数カ月の間、波風を立てたくないのかもしれない。

つまり、ドル安円高の加速が、三山、堂島支店、そして徳田さんにとって都合が良いってことだ」

「この話、東城さんや私にとって当分の間の患い事となるだけで、何のメリットもなさそうですね」

「そうでもない。
仮に徳田さんが筆頭常務になれば、国際金融部門の風通しが良くなる可能性がある。

徳田さんは融資畑の人間だが、住井出身だ。

統合してから15年経った今でも、あの年代には住井出身と日和出身との間で派閥争いが残っている。

仮に徳田さんが筆頭常務として東京に戻れば、日和出身の嶺さんの上になることは間違いないからな」
派閥云々を嫌う東城だが、嶺常務の存在が煩わしいことは想像に難くない。

‘ここは東城の意を汲むしかなさそうだな’

「了解しました。
取り敢えず、相場の成り行きを見ましょう」
と言い残して、ドアに向かって歩き出した。

ドアを開けかけたところで、
「いつも済まんな」
と詫びの声がかかった。

振り向きざま、
右手の親指を立てて微笑みを返した。

 翌日の木曜日、日経平均株価が91年以来の高値水準となる24000円台を付けたことを受けてドル円は111円48銭へと反発した。

しかしながら、ドル自体の地合いが回復したわけではない。
折から米国では政府機関閉鎖の可能性が示唆されていたこともあるが、ドルが軟調となってから日が浅い。

米10年債利回りが壁となっていた2.6%を超え、米株も堅調だが、ドルが本格的に反転するにはまだ早過ぎる。

それにテクニカル的にはフィボナッチ水準の111円55銭*の存在もある。

果たしてロンドン時間で、再びドルは110円台後半に下落した。

金曜日(19日)の午後になり、ドルが下に振れ出し、110円台前半を覗きかかったが110円49銭で止まった。

そんな折、財務省の吉住から勉強会の日取りが決まった旨、連絡が入った。
省内の都合で当初予定されていた1月下旬から延期され、2月7日に決定されたという。

 その晩、久しぶりに山下を誘い、青山のジャズバー’Kieth‘に出向いた。

入口を入って右手の奥にあるテーブル席に座ると、山下が慣れた様子で適当にオーダーを入れた。
BGMのオーダーも忘れない。
最近はColtraneに凝っているらしい。
「マスター、BGMはColtraneの’Ballads’で」

「山下さん、仙崎さんに選曲が似て来ましたね。
もっとも、風貌は全然違いますが」
マスターがからかう様に言う。

「えっ、それって‘どっちがどっち’ってこと?」

「ご想像にお任せします」
とマスターが笑いながら言う。

そうかわされては、もう山下も返す言葉もなさそうである。
「お疲れ様でした」
と言って、ビールグラスを持ち上げた。

週末の土曜日の晩、例によって来週のドル円相場予測を国際金融新聞の木村にメールした。

―――
木村様

予測レンジ:109円50銭~112円

有体で済みませんが、一応ドルの下値テストを予測します。

埋め草は沢山あるので、木村さんにお任せします。

*12月の短観に記載されていた「2017年度の大企業想定レート110円18銭」を記事に挿入すると、読者受けするかもしれませんね。
今週の最安値が110円19銭でしたから。

その下に110円15銭(61.8%、107円32銭&114円73銭)もあるので、それも絡めるとより木村さんのとこらしい記事になるかもしれませんね。

精々他紙が触れても節目の110円程度でしょう。

それでは失礼します。

IBT国際金融本部外国為替課 仙崎了
―――

数分後に木村から礼のメールが届いた。

―――
仙崎様

いつもありがとうございます。

最近は相場が予測通りに展開していて絶好調ですね。

国際金融新聞 市場部編集委員 木村

続け様に、OUTLOOKに着信の音がした。

添付付きの志保からのメールである。

―――
了へ

この間はどうもありがとう。

レジュメ、添付しておきました。
宜しく。

ところでもう、私達やり直せないのかしら?

志保
―――

簡単なメールである。

だが、最後の一行は重い。

これについては、返事の書き様がなかった。

返信には

―――
志保へ

マイクのファンドへの転職は心配しなくて良い。

また連絡する。


―――

(つづく)


*110円15銭(61.8%戻し、昨年最安値107.32&昨年11月の高値114.73)
*111円55銭(38.2%戻し、113円75銭&直近安値110.19)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。

第32回 「志保の悩み」

 昨晩(6日の夜)遅く、志保から待ち合わせ場所と時間を知らせるメールが届いた。
場所は帝国ホテルのロビー、時間は6時である。

ホテルの車寄せにタクシーが着いたのは6時5分前だった。
彼女はこれまでに待ち合わせ時間に遅れたことがないから、間違いなくロビーで待っているはずだ。

メインエントランスを抜け、ロビーの左前方に目をやると、直ぐに志保の姿が目に飛び込んできた。

プロポーション抜群で30代半ばの美人が高級ホテルのロビーのピラーに背を持たれながらニューヨーカーを何気に読んでいる。

ジーンズにホワイトのシャツ、その上に質の良さそうなヘザーグレーのカーディガンを胸前で結ぶといったさり気ない出で立ちだが、それが妙に彼女を際立たせている。

一瞬、そんな風に思えた。

彼女も自分を見つけたらしく、ふたりの目があった。

彼女が小走りに近づいてくる。

ふたりの距離が1メートルほどに縮まったとき、彼女が「久しぶり、了」と言いながら胸に飛び込んできた。

彼女はハグのつもりだろうが、傍から見ればそうは見えない。

ふたりの頬が接した瞬間、
「おい、ここは日本だぞ、少しオーバーじゃないか」
と耳元に囁いた。

「良いのよ、了となら」
と平気で言う。

良く分からないままに、束の間抱きしめる格好となってしまった。

彼女の肩を軽く押し戻しながら、
「結構、元気そうだな。
でも、志保が元気そうな様子を敢えて見せるときは悩みを抱えているときが多い。
何か、問題か?」
と聞いてみた。

「ええ、まあ。
でも、取り敢えず、食事にしましょ。
地下の‘なだ万’に予約を入れておいたけど、和食で良かった?」

「問題ないけど」

「ね、二人で歩くとき離れて歩くの難しいの。
腕を組んでも良い?」

「まあ、俺は良いけど、志保は拙くないのか?
有名人らしいからな」
少し茶化してみた。

「‘外国で活躍する日本人女性’ってやつ。
ニューヨークで働いているだけで、別に活躍してるわけじゃないのにね」
と言いながら、既に右腕を俺の左腕に絡めている。

‘なだ万’での懐石料理も終わり、デザートが運ばれてきた頃、問わず語りに志保が悩みを打ち明けてきた。

「了と知り合う前、イーストリバーの妻子持ちの人と付き合っていたことは以前に話したわよね。

その彼が離婚するから、また付き合ってくれと言ってきたの。

もちろん、付き合ってもいないし、そのつもりもない」

「だったら、別に問題ないはずだが」
素っ気なく言う。

「それが、そうではないのよね。
昨年4月に彼がナンバー・ツーにプロモートされ、運用部門の全ての人事権を持つことになったの。

了が帰国してから数カ月経った頃、彼自身の運用のアシストをしてくれと頼まれ、仕方なしに引き受けることになった。

ベースは一挙に10万ドルアップしたし、来月貰う予定のインセンティヴ・ボーナスも相当な高額に上ったのは喜ばしいことだけど、毎日が大変」

「同じ個室で仕事をし、毎日の様に口説かれてるってわけか。
それで、どうしたいんだ?」

「給料は魅力的だけど、居心地が悪すぎる。
他に仕事を探すしかないと思ってる。
困ったわ」

「まだポートフォリオ・マネージャーの仕事を続けたいのか?」

「ええ、楽しいし、過去のトラックレコードも悪くないから。
多分、私に向いている仕事だと思ってる」

「それで、どこで仕事がしたい。
ニューヨーク、ロンドン、どこでも紹介できるけど」

「まだ暫くは、ニューヨークにいたい。
でも、人間として信頼している人の下で働きたい。

この世界、どこか腐ってる人が多すぎるわ」

「まあ、腐ってる人間はどの世界にもいる。
まだ、そっちの世界にだってまともな人間は少なからずいるよ。

ニューヨークじゃないけど、コネティカットに行く気はないか?
そう、志保も良く知ってるマイクのファンドだ」

「えっ、本当!
彼なら信頼できるし、一度オールドグリニッジにも住んでみたかったの。
お願い、頼んでみて」
真剣な口調だ。

どうやら元カレは毎日、彼女に陰湿に言い寄っていたのに違いない。
その彼から逃れられるという安堵の気持ちが働いたのか、嬉し涙らしいものが彼女の目に滲んでいる。

「あっちに戻ったらレジュメをメールしておいてくれ。
マイクには話しておく。

もう大丈夫だ。
安心しろ。

ただ、イーストリバーを辞めるのはボーナスを貰ってからにしておけよ」

「そうね、お金って大切だもんね」
笑って言う。
もうすっかり元気を取り戻した様だ。

 その夜、彼女を抱いた。
二人の関係は本店への転勤でなし崩し的状態になっていたが、きっぱりと別れたわけではない。
それだけに、会えばそうなるのは分かっていた。

 成人式の週初(8日)、東京市場がクローズのなか、相場は113円前半でもたついた。

その日の夜中、ニューヨークの沖田に電話をかけた。
「どうだ?」

「ドル円の上は重いですね。
何となく、落ちそうな気配がします。

ユーロドルはややオファー気味ですが、ポジション調整後は買いだと思います。

何かしますか?」

「そうだな、ドル円50本売ってくれ」

「04(113円04銭)です」

「了解。
それと10分後に、もう50本売っておいてくれ。
レベルは構わない。
円に関しては、その後のリーブは不要だ。

あとユーロドルを50本買いたいが、何処が良い?」

「60(1.1960)辺りでしょうか?」

「じゃ、60でリーブを頼む。
ストップは丁度(1.1900)givenで良い。

忙しいところ、どうもありがとう。
それじゃ」

「お疲れ様でした。
お休みなさい」
いつもの静かな沖田の声で会話は終わった。

翌日の朝、山下からニューヨークでの取引内容の報告を受けた。
追加のドル円の売り50本は13円07、ユーロドルの買い50本は1.1960でダンとなった。

「どの様に処理しておきますか?」
山下が聞く。

「3円04の50本の売りは先週の12円台の利食いに当てておいてくれ。

これで現在のポジションは、ドル円は14円台の売り50本、13円07の売り50本、ユーロドルは1.1960の買い50本。

それで良いか?」

「はい、間違いありません。
乗ってきましたね」

「まあな、ただお前以外はパットしないから、10~12(10月~12月)は全体で少し未達だ。

俺もプラスだが、大したことはない。
ここらで頑張らないと、3月末の数字が厳しくなる」

「そうですね。
ところで、大阪の件の真相はどうなんでしょうか?」

「明日には浅沼の調査が終わるから、明後日には真相が分かる。
どうせ俺が片づけることになるのだろうが・・・。

ともかくそれはそれで、稼げるときに稼いでおくしかないな」

会話を終えて、ふとスクリーンを見ると、みるみるとドル円が急落して行く。
午前中に50(12円50銭)がgivenした。

日銀の超長期国債買い入れオペが予想外の減額となったことで、テーパリングが進むとの思惑が市場に走ったためである。

そして翌日には、‘中国が米債投資を辞める’との報が流れ、ドル下落が続き、週末には110円91銭を付けて、週を終えた。
少しツキが回ってきた様である。

週末の土曜日の午前、ベッドに横たわりながら大阪の件を考えていた。
堂島支店・柿山の話、そして三山製作所の話、どちらも噛み合いそうで噛み合わない。

柿山は108円台の時点で、‘110円まで戻す可能性は極めて低いから、売った方が良い’と三山に強く勧めたという。

だが、話の半分が本当だったとしても、為替予約は顧客である三山の意思で行うものであり、銀行が強要できるものではない。

やはり、真相を暴くためには‘面倒でも自分で大阪に出向くしかないな’

その晩、国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円相場予測を書いた。

木村様

やっと、予測してきた様に相場が動き出しました。

114円台のショートが根っことなり、活躍しています。
新たに113円台でショート、そして1.19台でユーロドルをロングしたので、ディールの方はまずまずです。

日銀の超長期債の買いオペの減額とテーパリングが結び付けられ、円が急騰しましたが、
確証はありません。

ドルが落ちたのは、今のところポジションの投げが主因と判断しています。

米法人税減税とFEDの正常化プロセス継続という好条件がありながらも、115円を試せなかったため、‘日銀のテーパリング話がドルロング(円ショート)の投げに繋がった’程度の話で捉えておいた方が無難かと。

もっとも、米国のNAFTA離脱話や中国の米国債購入の減額話の信憑性が高いのであれば、この先サイコロジカル水準の110円を試す展開があっても不自然ではありませんが・・・。

ユーロドルが1.21を抜いているので、これもドル円の押し下げ要因には違いありません。

こんなところで適当に行間を埋めておいて下さい。

予測レンジ:109円~112円75銭

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

(つづく)

第31回 「新たな問題」

 2日の昼過ぎまで横浜・永田町の実家で過ごした。

帰りがけに玄関で靴を履きながら、
「いつも遠いのに、社宅の掃除に来てくれてありがとう。
それに料理も助かるよ」
と母に礼を言うと、その目が潤み出している。

単なる別れの涙もあるのだろうが、いつまでも結婚もしない息子に対する複雑な思いが涙に籠ってる感じがした。

「随分とお前も大変なんだろ。
母さんはお前の仕事のこと、何も分からないけどあまり無理しないで」
と言う。
母親が息子との別れ際にかける有体な言葉だが、それが自分の母親のものであれば特別である。
自然と心に疼きを覚えた。

呼んでおいたタクシーが既に門の前で待っている。
それを口実にドアを押し開き表に出ると、後を追う様に出てきた母に封筒を手渡した。
50万円入っている。

「お前、こんなに・・・」と戸惑う様な母の声を背中に聞きながら、タクシーに飛び乗った。
車窓越しに少し左手を挙げて母を見やると、手を振りながら何か言ってる。
‘ありがとう、元気で’と読めた。

 その日ドル円は、北朝鮮・金正恩による米国への威嚇発言でリスクオフの雰囲気が拡がり、112円06銭まで下落した。

だが、複数のテクニカル・ポイントが112円近辺に絡んでいるため、ドルに下げ渋り感がある。

その日以降、日米株価の上昇やISM製造業景気指数など良好な米経済統計がドルの背中を押し、ドル円は米12月雇用統計が発表される週末前に113円方向へと動いて行った。

 夜に米雇用統計の発表を控えた金曜日の10時過ぎ、東城から呼び出しがあった。
大阪管轄の客との揉め事で話があるという。

執務室に入ると、晴れ渡った空の下にくっきりと浮かぶ皇居の森を眺める東城の背中が目に入った。
相変わらず、背筋が伸び、凛とした後ろ姿である。

だが、その後ろ姿とは反対に、振り向いた顔には若干屈託の色が滲んでいた。

「まあ、座れ」の言葉を待って、ソファーに腰かけると、
東城も向かい側に腰を下ろした。

「市場はどうだ?」
開口一番の言葉はいつも通りである。

「複数のチャートポイントが絡む12円近辺ではドルが底堅い様です。
あそこが抜けると、面白かったのですが、残念ながら13円方向に戻ってきてしまいました。

ユーロドルは1.20台に乗ってから上値に重たさが感じられますが、9月の高値(1.2092)近辺ですから無理もないことかと。

もっとも、根本的にユーロを見直す時期が近づいているのかも知れません。
世界の外準(外貨準備)に占める通貨別シェアは、このところドル建てが減少し、僅かながらユーロ建てが伸びています。

昨年6月にドラギが「デフレ圧力はリフレ圧力に置き換わった」と発言していますが、あの辺りからユーロ相場に潮目の変化が見られます。

早晩、ユーロドルのレンジの下値が1.20に変わる可能性があるのかと・・・」

「そうか、分かった。

ところで、ちょっと大阪で問題が起きてる。
あっちで上手く片付けば良いが、どうも大阪支店長の話だと拗れそうだ。

堂島支店の企業担当が工作機械メーカーの三山製作所に3年先までの輸出(ドル売り円買い)予約を強いたらしい。

‘らしい’というのは、堂島支店の担当が客も納得した上でのことだと言い張ってるからだ。

とは言っても、責任転嫁をしている時間はない。
3月末が迫っているため、このままドル高が進行すれば、三山の決算期における為替評価損が膨らむことになる。

コストは108円台、予約残は60本だから、現状のレートで換算すると含み損は約2億数千万円だ。

それと、三山の輸出先である米国企業からの受注が激減しているという話もある。
仮にその状態が続けば、未使用のショートポジションが発生するから、事は結構深刻だ」

「でも何故、うちの堂島支店の担当が、そこまで長期のフォワードを予約させたのでしょうか?」

「以前にシンガポール支店のトレジャリー部門にいた柿山が担当だ。
彼は市場部門から外されたことを今でも根に持ってるそうだ。
その辺りに原因がありそうだが、もう少し事情を調べてみてくれ」

「了解しました。
至急、コーポレート・デスクの浅沼を大阪に行かせます」

「そうか、分かった。
でも、最終的にはお前が決着を付けるマターだ。
出来る男には、次から次へと難題が降りかかるな」
笑いながら言う。

「本部長、ここは笑うところじゃないでしょう」
半ばむっとした表情を浮かべながら言う。
無論、東城だから許される口のきき方である。

「悪い、悪い」と言いながら、東城はデスクに向かって歩き出していた。

もう話は終わりだということである。

ドアを開けようとしたところで、
「新年会は近い中に‘下田’で良いか?」
と、後ろから声がかかった。
労いを入れるところが東城らしい。

「はい、ありがとうございます」
向き直って、軽く会釈をしながら答えた。
わざとらしく少し笑みを添えるのも忘れなかった。

自席に戻るなり、
「浅沼、ちょっとこっちに来てくれ」
と声を掛けた。

今しがた東城から聞かされた話をそのまま彼に伝え、
来週早々に大阪出張を命じた。

その日の晩、米12月雇用統計の発表があったが、銀行には残らず、社宅でラフロイグのグラスを傾けながら統計結果を待った。

統計結果は思わしくなかった。
NFP(非農業部門雇用者数)が市場の予測を下回り、ドル円は13円前半で伸び悩んだ。

ニューヨークの沖田に電話を入れたが、‘もうこっちの連中はやる気はなさそうです’と言う。

それを聞いて、モニターから逃れることにした。

ベッド脇のテーブルにグラスとボトルを運び、そしてBGMにAnn Burtonの気怠いボーカルを選んだ。

ベッドに寝転ぶと、少し酔いの回った頭の中で予測が空回りした。
それでも何とか当りを付けた。

来週は短期の保ち合いを放れる。
先週後半の値動きから上に放れそうだが、そろそろ需給が緩みそうな(実需のドル売りがでそうな)気配もあり、基調としてのドル買いにはならないはずだ。

現在のポジションは14円前半のショート50本、12円30のロング50本のみである。

できれば50本ロングを適当に利食い、そしてショートはそのまま残しておきたい。
そんな展開になれば良いが・・・。

 土曜日の晩、国際金融新聞の木村に来週のドル円予測を送った。

木村様

明けまして、おめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

13円台は値頃感、相場勘、そしてチャートポイントが絡み合い、揉み合いかと思います。

依然として基本的には、ドルの上値は重たく、ベアリッシュ・バイアスです。

予測レンジ:111円~114円10銭
キー水準:上は113円75銭、下は112円前後

いつも通り、行間の埋め草は適当に頼みます。

以下、ご参考まで

米税制改革法案の実現やFEDの正常化プロセス(利上げ)という与件がありながら、ドルに力強さが感じられない。

昨年を振り返れば、米利上げがドルを押し上げた経緯はない。
昨年12月のFOMCでは今年2~3回の利上げを行うというのが内部のコンセンサスの様だが、それがドル高を牽引するとは思われない。

以前にお話した米イールドカーブの「フラットニング→逆イールドカーブ」が徐々に顕在化しつつあり、「株のクラッシュ→ドル急落」には警戒を要する。

IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎了

 メールを出し終わった直後、スマホが鳴動した。
阿久津志保からの電話である。
「了、明日会える?」

昨年からの約束である。
断る訳にはいかなかった。
「ああ、良いけど」

「何だか、疲れてるみたい。
それじゃ、後で時間と場所をメールしておくから、明日必ず来てね」

「分かった」
二人同時にスマホを切った。

会えば抱くことになるのが分かっている。
それが今は億劫でもあり、憂鬱でもある。

(つづく)

この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。