やっと、ニューヨークの沖田が戻ってきた。
これで、新年度の臨戦態勢が整う。
週初(16日)の早朝、いつも通りの時間にディーリング・ルームに入ると、既に沖田はインターバンクのデスクに座っていた。
数週間前までは山下が陣取っていた席である。
太目の山下の体形とは違い、痩身で精悍だ。
日頃、テニスで体を整えてきた成果だろう。
沖田はあっちで地元のカントリークラブに所属し、週中の疲れを発散していた。
彼と幾度か対戦したこともあったが、学生時代にテニス同好会に所属していただけあって、ただひたすら遊ばれたという記憶しか残っていない。
「一年ぶりか、顔を見るのは。
毎日の様に電話で話してるから、あまり懐かしさも湧かないな」
右手を差し出しながら、声をかけた。
「そうですね。
でもまた、リアルな現場でご一緒できて光栄です」
その右手を力一杯握り返しながら、元気そうな声で言う。
‘一段と頼もしくなった様だ’
「それじゃ、とりあえず、この部屋の皆に紹介しておくか」
と言い、ディーリング・ルームを一緒に回った。
一通り、紹介し終えたところで、
「東城さんには自分一人で挨拶してこい。
その方が良い」と指示した。
週末の米英仏のシリア攻撃も単発で終わるとの見方が拡がり、金融市場全体にどことなくリスク・オンの気配が漂う。
日本株がそこそこ堅調に推移するなか、ドル円も107円前半で強含みに推移している。
翌日(17日)、日米首脳会談で‘トランプが安倍首相に通商上の厳しい注文を突き付けてくるのでは’との懸念が浮上し、午後に入るとドル円は一時6円89銭(106円89銭)まで下落した。
だが、下値圏でのドルは底堅さを示す。
‘もう今週は落ちそうもないな’
「沖田、ここはどう思う?
俺は先週末にショートを振ってる。
コストは60(107円60銭)だ」
「そうですね。
仲の良いヘッジファンドがドルショートを手仕舞うと言ってました。
週末までに買い戻してくるでしょうから、7円後半までは上がるかもしれませんね」
「そうか、それじゃ、50本買い戻すか。
そして新たに50本ロングする。
俺はこっちで50本買うから、お前はロンドンで50本買ってくれ」
「96(106円96銭)です」
「了解、こっちは95だ。
そっちの50本は上の利食いに充ててくれるか。
お前、昨日のニューヨークで7円25で20本ショート・メイク(ドル売り)した様だが、コストがあまり良くないな。
俺が買った50本のうち20本使うか?」
「はい、そうですね。
お言葉に甘えて、95の20本、使わせて頂きます。
残りの30本はどうしますか?」
「先週の高値は7円78だったから、
75で利食いのリーブを週末まで回しておいてくれ。
もう落ちないから、ストップは不要だ」
「了解しました」
「ところで、山下はどうだ?」
沖田がディールの処理をし終えたところで聞いてみた。
「多少英語に問題はある様ですが、何とかこなしている様なので大丈夫だと思います。
それより、支店の問題で少し気になることがあるのですが」
その会話が右手のデスクに座る野口に聞こえたらしく、こっちを向いた。
‘沖田の話は公にできない内容らしい。
場所を変えた方が無難だ’
「急ぎの話でなければ、お前の歓迎会を兼ねて金曜日の晩に聞くということでどうだ?
もっとも、帰国して間もないから、ご家族のこともある。
日を改めて構わないが」
「大丈夫です。
家内は金曜から週末にかけて、実家に行くと言ってましたから」
その日以降、ドル円は、日米首脳会談が波乱なく終了したことや日経平均が節目の2万2000円を抜いたことで、107円台で強含みに推移した。
金曜日の晩、沖田を銀座の寿司処‘下田’に連れて行った。
「旨いですね。
ここは東城さん御用達のお店ですね」
「ああ、昨年の俺の帰国祝いもここだった。
今日は東城さんの支払いで良いそうだ。
だから存分に食って飲んでくれ」
「それじゃ、遠慮なくいきますか」
小上がりに座る二人の笑い声がカウンターの方まで響き渡った。
6時半という時間のせいか、まだ店内には二人だけで、他の客に気を遣う必要もない。
その笑いに乗じて、大将が声を掛けてきた。
「了さん、楽しそうだね。
お酒は、あの時と同じ獺祭の極上版で良いかい?
東城さんからさっき電話を貰ったよ。
お二人に最高の寿司と最高の酒をだってね」
あの時とは、東城が俺の帰国祝いをしてくれた日のことだ。
‘相変わらず、気の付く人だ’
旨い寿司と酒で気持ちがほぐれたところで、
「例の支店の話って何だ?」
と切り出した。
「実は、現地企業に融資した金が焦付き、その件で山下さんにも影響が出そうなんです。
金額は2000万ドルほどですが、支店としては小さくありません。
貸出前の審査が甘かったことが原因の様ですが、支店のコーポレート・ファイナンス部門が負う不良債権に変わりはありません。
支店長は、他の部門でターゲット以上の収益を上げ、その分で不良債権を償却するという考えの様です。
要は、山下さんにも負担がかかる可能性があるということです」
「それは理不尽な話だな。
部門ごとの損失は本部制の縦割りで解決すべきことだが、支店長にも統括の責任がある。
だから店内の他部署の上がりで償却分を賄い、支店収益を落としたくないってことか。
それは、既定事実なのか?」
「支店上層部ではそうですね。
山際さんからはそう聞いています。
コンフィデンシャルとは言っても、店全体に行き亘るのは時間の問題でしょう」
「それで、山下には伝えてあるのか?」
「はい、ただ各部署の具体的負担額が決まっていないので、今の処は山下さんも動き様がありません」
「あいつも赴任早々、ついてないな。
山際さんの後任はもうスイスの横尾さんで決定だし」
‘いざとなったら、助けるしかない’
「俺も山下のことは気遣うが、お前もあいつと話していて気づいたことがあったら、教えてくれ。
あいつは体形に似合わず繊細なところがある」
「はい、心得ています」
それから一時間後、その場をお開きにした。
明日の早朝、沖田は仙台の実家に帰国の挨拶に行くという。
無理に二件目を誘わなかった。
沖田と別れた後、数十メートル歩いたところにある‘やま河’へと足を向けた。
「いらっしゃい、お一人?」
「ええ、山下の替わりが着任したので、今度連れて来ますよ」
「お願いします。
仙崎さんの同僚や部下でしたら、品も良いでしょうから大歓迎よ。
飲み物とアテは、いつもので良いかしら?」
「はい。
BGMはColtraneの‘Ballads’を。
音量は他のお客さんの邪魔にならない程度で」
カウンターの奥に、男同士の二人連れ、二組が静かに話し込んでいる。
‘Say it(Over and Over Again)’がTenor Saxの音色に乗って流れ出すと、彼らの聴き入る空気が伝わってきた。
トラックが‘Too Young to go steady’に移る頃には、どこからともなく「ママ、もう少し音量を上げて」という声が聞こえた。
‘嬉しい限りだ’
ラフロイグとColtrane、最高の組み合わせで至福の時が流れる。
社宅に戻ると直ぐ、デスクの上のPCにログインした。
モニターで全ての通貨ペアを一覧した後、チャートに目を移す。
ドル円は7円86(107円86銭)へと跳ねた様だが、その後は伸び悩んでいることを映し出している。
‘日米金利差拡大が背景’と、メディアは伝えているが、実態は沖田が言っていたヘッジファンドが買っていた円を売り戻しただけだ。
色気のない相場に見切りをつけて、Outlookをクリックした。
国際金融新聞の木村宛てに来週のドル円予測を書かなければならない。
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木村様
見えている与件でポジションを持つと、やられる展開ですね。
ここからは上はドルの需給が緩いと思うのですが、本邦の機関投資家も少しずつ外物を買いたがっているのは事実です。
8円台(108円台)は売りたい実需がいて、6円台は買いたい実需と機関投資家がいる。
つまり、来週もその間での揉み合いでしょうか。
でも、いずれはUSTR(米通商代表部)が動いてきますね。
中間選挙の時期を考慮すると、その動きは年前半でしょうか?
1990年代前半のパターンだとすると、ライトハイザーが‘右手に自動車部品等の輸入数量増、左手に円高’というプラカードを掲げてくることは間違いないと思います。
日本が歴然とした対米黒字国であり、‘実質実効レートで円は25%も過小評価されている’というIMFのエヴィデンスを持っているのであれば、‘ドル円の下値’はまだ深いところにあると考えておいた方が無難かもしれません。
問題は、上で書いた様にその時期ですね。
木村さん、USTRの動きで何かあったら、教えてください。
来週の予測レンジ:105円50銭~108円50銭
IBT国際金融本部外国為替課長 仙崎 了
追伸:埋め草はいつも通りお任せ致します。
(つづく)
この連載は新イーグルフライから抜粋したものです。